成寿一覧表

講演
生きがいのある人生

善光寺住職 黒田 武志

さる五月十六日曹洞宗檀信徒会館において、黒田方丈は「曹洞宗婦人会」総会にて「生きがいのある人生」と題して講演を行いました。曹洞宗婦人会は全国千六百カ寺の寺院婦人会、総会員数五万人の団体で、広く活動を続けています。当日は熱心に講演に聞き入る皆さんの姿が見られました。

 過分なご紹介をいただきました黒田武志でございます。先程総会も無事終わられた由、おめでとうございます。
 曹洞宗の為に、仏法興隆のために御尽力くださっているお姿に頭が下がります。この婦人の会も三十年近い年月。会もさぞかし磐石になられていることでしょう。曹洞宗の住職として御礼を申し上げます。
 さて、光明皇后というお方。飛鳥時代今から凡そ一二五〇年も前の話です。日本の歴史の中で最も才色兼備の人であると思います。聖武天皇に東大寺の建立を勧め、悲田院・施薬院を造るなど社会事業に大いなるお力を尽くされ、まさしく闇の中に一条の光明を与えたお方です。
 実に女性の力は大きいですね。
 ある日、光明皇后にお告げがありました。浴室浣濯の行といって老若男女にかかわりなく千人の人をお風呂に入れてあげなさい、というものでした。やがて千人目の人、ときに癩病のような人が現れ、光明皇后はびっくりするのですねぇ。それでもお告げに従い、お風呂に入っていただく、そしてその方の膿を吸い、身体を洗ってさし上げると、その人は仏様だったという逸話もあるお方です。まさしく仏語に謂う一水四見。心の在り方を教えている。
 私も六十五才ですから人生の三分の二は終わってしまいました。さぁどうする。
栃木県の大田原市という当時は田舎町の小さな寺の五男坊として生まれました。男ばかりの八人兄弟です。父の教育方針は「学校は出してやる。しかしその後は自分で決めろ。一切面倒はみない。」というものでした。高校卒業後のことをあれこれと考えるようになっていたのです。気ままな五男坊ということもあって、未だ自分が僧侶になろうとはその頃思っていなかったのです。
 高校時代の私には、一つ大きな夢があったのです。ボクはいつか世界中を歩く、そして色々なことを見てみたい、という・・・。高校三年生の夏休み、僧侶となっていた二番目の兄が、アメリカに開教師として渡ることになりました。そこで自分も連れて行って欲しいと頼み込むと、「お前、将来の道は決めたのか? お前は坊さんが似合うと思う。親父だってそう思っているに違いない。日本でじっくり仏教を学んでからアメリカに来い。」という兄の一言で心が決まり、私は僧侶になるため駒澤大学に入学したのです。当時大学の授業料 年間9千円、大学院一万八千円でした。アルバイトをして授業料に充てたものです。大学の卒業が近づき、兄に手紙を出すと、「大学を出たくらいでは何の役にも立たない。大学院へ行け。」と。大学院を修了し又手紙を出すと、「大学院を出たくらいではアメリカ人に仏教は説けない。本山の総持寺に行ってから来い。」そして「次は永平寺で修行を積んで来い。」・・・。結局、十八才の時に夢みたアメリカへ、実際に渡れたのは三十才を過ぎてからでした。
 しかし、厳しく言ってくれたこの兄のおかげで私は、感謝の心も、お金の尊さも、生きることの尊さにも気がつかなかった自分の心を磨くすばらしい経験を二十才代でたっぷりさせていただくことができたのです。
 苦しい生活の中から駒澤大学の大学院人文学研究科仏教学専攻修士課程を修了させてもらい、曹洞宗大本山総持寺に修行のため上山し、十月にもう一つの本山永平寺に上山し、修行しました。これは僧侶となるための一般的過程です。しかし私は、どうにも満足できませんでした。伝統的、形式主義的な仏教的環境(形を尊ぶことに重きをおく修行)に身を置くうちに、いつの間にか自分の中から湧き上がってくる仏教への疑問、教団や寺院への疑問、そして自らへの厳しい反省がありました。こんなことでよいのだろうか。私に果たして僧侶としての存在意義があるのだろうか、と疑問と不安と焦燥に明け暮れました。
 こうした悶々のうちに私は下山します。自分自身を寺院以外のところでとりなおしたいと決意したのです。
 当時私の懐中には僅かなお金しかありませんでした。身に着けている衣一枚が全財産といってもよいのでした。この金では帰れない。仕方がない。福井駅まで歩くことにする。歩くだけではダメだ。家々道すがら経をあげながら行こう。夕暮れにようやく駅に着き、発車のベルにせかされるように列車に慌てて飛び乗りました。ところがそれは反対に行く列車だったのです。已むをえないので富山というところで降りて、友人のいる寺を訪ねて一夜の宿を借りました。これがきっかけで日本一周行脚が始まったのです。富山は仏教の盛んな地方でありますから一日の托鉢で八百円ほどいただき、こんなに集まるなら能登の大本山総持寺の祖院まで行こうと決心したのが始まりでした。
 行脚の途中、京都の郊外でのことです。雨の日が続いて、つい涅槃金(不慮の死に会った時の葬式料)を使い切ってしまうことがありました。木賃宿で残った二十円を見つめ乍ら、茶碗一杯の茶とコッペパンをかじり、人間の生命は何て安いもんだろうなどと思いました。翌日も雨です。「今の俺に一体何ができるんだろう。」と自問自答しました。「そうだ、俺は坊さんだったんだ。お経をあげることが仕事ではないか!」そう気がついて、宿の主人にお経をあげさせて下さいと頼みました。雨に濡れ、汚れた衣のままの私に主人は読経を快諾下さり、その上温かな白いご飯をご供養して下さったのです。それ以上甘えるわけにはいかないと思って、土砂降りの雨の中に飛び出して行きました。しかし、誰も喜捨してくれる方はありません。午後になって雨が止み始めた頃、学校帰りの女学生がたくさん現れたので、学生に向かってお経を唱えると三円、五円とみるみるうちに応量器にお金が入ってくる。その時でした。太陽がパァーッと差したんです。
 「ああ、私は生かされているんだ。人間は絶対に死なないんだ。」「この身は仏様にお任せしていればいいのだ。人、一人ひとりの中に、仏様はいらっしゃる。」「一人ひとりに感謝し、幸いになっていただくことが私のすべきことだったのだ!」
 この時の感動をどう表現したらよいのか・・・。実に感動的に確信したのです。それが私の人生の基礎になりました。私はそうして救われてきましたから、何も動ずるものはありません。苦境の中で大いなるものに救われたのです。生涯忘れ得ぬ思い出です。
 さて、私は曹洞宗の僧侶です。『修証義』について少しお話をさせていただきます。『修証義』の「修」は修行、「証」は悟りのことであります。禅の修行は坐禅が中心でありますが、坐禅というと悟りを開くために修するものと思う人もあるでしょうが、実はそうではないのです。もしそうだとすると、坐禅は即ち修行の手段で、悟りは目的ということになります。確かに常識的には修行と悟りは別物で、修行は先、悟りは後、修行の結果得られるものが悟りということになります。これは至極もっともなことですが、禅では修行と悟りを対立させ、その間に思慮分別をさしはさむことを「染汚」といって嫌うのです。修行と悟りを対立させて、坐禅しながら悟りを待ち望む思いがあってはならぬ。坐った姿がそのまま仏である、と教えるのであり、これを修証不二というのであります。
 昨今、目的のために手段を選ばない「染汚」の行為が生み出したもの、それが環境汚染、公害、自然破壊、資源の乱開発等々、実に忌まわしい問題をも契機してきています。競争原理は時として人間の飽くなき欲望につながり、その弊害は私の最も危惧するところです。
 取ってやる、奪ってやるといった態度で犯し続けてきた人間の飽くなき欲望の累積に対する報いが今や地球規模で人類全体の上にのしかかってきております。
 私たちは今こそここで、あまりにも現実的、欲望的人間を中心としたこれまでの生き方、世界観を深く反省し、大自然の恵みによって生かされている人間の姿に目覚めなくてはなりません。生かされている自らの姿に気づいた時、「己れ未だ度らざる前に一切衆生を度さん」とする誓願がおのずから生まれるでありましょう。
『修証義』第四章は「発願利生」(誓願をおこして一切衆生を救うこと)を説いておりますが、四通りの般若(智慧)として、 

 布施(むさぼらず、へつらわず、物でも心でも惜しみなく与える)
 愛語(慈悲の心をもって、親が子に対するが如く、思いやりのある優しい言葉をかける)
 利行(身体の行い、口で言うこと、心に思うこと、等における善行で人々に利益を与えること)
 同事(他人と心を一にして協力し合うこと)

の四通りの実践項目を示しております。これはいずれも発願利生、忘己利他の思いやりを根底においたものであります。
婦人会会員の誓いはまさにこの四摂法そのものですね。「摂」という字の意味は「まとめる」とか「整える」という意味ですから、人と人が幸せになるための四つの条件をまとめて教えていると申し上げてよいでしょう。この四つのことが、何時でも、何処でも、誰にでも、実行できた時、人は、幸せになることができるのです。
 「人間万事塞翁が馬」、これは中国の故事ですが、この意味はもうご存知ですよね。
 人生には何も善し悪しなどない。自分が今、置かれている所で精一杯生きることが大事なのです。そして仏様の教えを実践することこそが本当の信仰生活なのです。一日一日を大切に生きることです。虚しく過ごしてはなりません。明日をも知れぬこの生命ゆえに、朝には今日生命あることを深く感謝し、夕べには今日の無事を感謝して、改めて尊い日送りを心から誓うのです。
 今日一日の生命を大切に生きることこそが、感謝報恩の生活であり、仏教徒の生活なのであります。
最後に瑩山禅師様について少しお話したいと思うのですが・・・。禅師の母君は大変熱心な観音信仰者でした。まだ京都在住の時、母(禅師の祖母)と別離してしまい、七〜八年行方知れずでした。ある日、清水寺(本尊の十一面観音菩薩)に七日、日参の願をかけたところ、六日目に参拝の路上で十一面観音の頭部を見つけたのです。この機縁に驚き、十一面観音に更なる願をかけたところ、翌日母の使者と巡り会うことができたというものです。この因縁を重んじ、尊像を補修され一生頂戴の念持仏とされたのです。また、この観音様は瑩山禅師のご生涯にも深い関りがあるのですねぇ。
 禅師の母君は、なかなか子供を授かることができなかったので、十一面観音に祈願をかけたところ、その願いが叶い、三十七才の時、朝日を飲み込む夢をみて、ご懐妊を確認されたといわれています。そして「もし私の子が、成人となり、善智識となって、人天のために益する人になるならば、どうか安産させてください。もしそうでないならば、観音様、威神力をもって胎内で朽失させてください。」と祈られ、毎日『観音経』を読誦して礼拝されたそうです。その後、ご出産のため多禰観音堂の産所に行く途中で瑩山禅師を安産され、このことに因んで名前を行生と名づけたといわれています。
 このように母の篤い観音信仰の影響を強く受けて育ったことが、後に禅師の出家の機縁につながったのではないかと考えられています。
 瑩山禅師は、いってみれば、観音様の申し子であったのです。
 そして、ご生涯を通じて、観音様と一つであったのです。
 自身を観音様の申し子として自覚する、そのことが後に衆生済度の誓願へと発展してゆくのです。
 誓願は、瑩山禅師にとって大変重要な意味をもっており、禅師の生涯は誓願に貫かれていたということもできるのです。その誓願の一つが諸々の人々を救済したいという衆生済度ですね。
 そしてもう一つが、女性を済度する菩薩になりたいというものでした。お母様が女人救済、つまり女性の幸せのために尽くしてくださいと遺言されたことを、禅師様は強い誓願として、かたときもお忘れにならなかったのです。
 禅師は檀家さんをとても大事にされた方で、檀家さんを仏のように敬い、寺檀一体となって仏法に対しなければならないという強い誓願も立てておいででした。
 家族構成の変化・地球・社会の変容が顕著なこの時代だからこそ、私たちは檀信徒との関りを大切にして布教・教化を実践してまいりたいものです。

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