成寿一覧表

追悼 ― 黒田武志老師 ―

全力疾走の生涯67年

金澤大乗寺山主 東 降眞

  平成十六年十二月二十九日午前九時四十五分、横浜市の曹洞宗善光寺第二世・黒田武志老師は遷化した。病名は大腸癌。世寿六十七歳。   
  同学の畏友、大八木春邦老師(山形県・保春寺住職)から、この日の午後、電話でしらせをうけた。手がけていた寺務を即時中断し、直ち に弔問に走った。梅嘉庵で倫子夫人にご挨拶して、黒田老師のご遺体を拝した。
  あの闊達豪快な黒田君(以下同窓のよしみで親しみをこめて黒田君とよぶ)が、年長の私を措いて旅立つとは、なんということか。口もとに笑みをうかべたおだやかな表情で横たわっているすがたをみて、これは、私はからかわれているのではないか、今にも、冗談だ、冗談だ よ、ハハハハと起きあがってくるのではないかと疑いたいほどであった。黒田君と私は、駒澤大学、同大学院と同級であって、およそ五十年 にわたって深いちぎりを結んできた。ここに、思いつくまま黒田君を追悼したい。
  まず、黒田君は、信心のあつい人であった。仏教僧が仏教の信心にあついのはあたりまえだが、そのあたりまえのこころを豊かにそなえていた。私は、国の内外をなんどか一緒に旅行したが、ホテルの自室でも、午前四時前後には起床し、念持仏をテーブルの上に安置し経文を誦んでいた。お仏舎利を尊崇し、国外、国内の各地の道場にさまざまなかたちで物心両面の供養をしてきている。諸仏、諸菩薩の像を日本国、外国の多くの寺院、精舎に寄進している。ひと知れず、こういう陰徳を積んでいるのである。
  また、黒田君は、誓願に生きた人だといいたい。若いころ、大本山永平寺、大本山總持寺の僧堂から全国を托鉢行脚し、タイのワット.パ クナム、アメリカの禅センターで修行し、血と涙と汗を流して苦労を積み、やがて横浜市に善光寺を開創した。事実上、善光寺の開山である。その根底にみなぎる原動力は、道元禅師、瑩山禅師の両祖を通じて釈尊にかえるという願いであり、誓いであり、祈りであった。
  黒田君は、善光寺でありとあらゆる教化活動を展開している。黒田君に帰依する壇信徒は三千軒といい、あるいは五千軒ともうわさされる驚異的数字である。それは、黒田君の誓願力による辛苦のおのずからなる結果であったといえよう。
  また、黒田君は、現代の日本仏教界、わけても曹洞宗において群を抜いた国際人、世界人であったといってよい。これはアメリカ開教に生涯をささげた実兄前角博雄老師の指導、影響も無視できないが、タイ、アメリカをはじめ、ヨーロッパ、インド、東南アジア、韓国など、各国に出かけ、また、かの地の仏教者と交流を密にした。
  「横浜善光寺留学僧育英会」を結成して、みずから理事長となった。その成果は、平成十四年一月の時点で、すでに関係国二十ヵ国一地域、百十四件に及ぶ。善光寺檀信徒の理解、協力の賜でもある。これはすべて黒田君の単独、善光寺一ヵ寺の浄業であるところが特長である。このような例は、あまりない。少なくとも、日本仏教界でのこの種の活動の先駆者といえよう。また、黒田君は、後進の人材育成にも力を注いだ。育英会は、その典型である。育英資金を受けた者のなかには、学位取得者三人、大学教授数人がいる。黒田君のもとで出家得度した人は、老若男女あわせて三十人、いや五十人を超えるだろうという。
  黒田君は、ご子息四人を、タイのワット・パクナムのプラ・マハージャマンガチャラ住職を招いて、タイ仏教上座部の得度を受けさせた。このとき中村元博士も同席された。日本仏教史上、最初の出来事であろう。あるいは、若い者に、だれかれとなく、そっと小遣いを渡し、将来を嘱望したのである。
  黒田君は、人間的魅力に富んだ人であった。倫子夫人を二六時中たよりにし、あてにして、「ミチコ、ミチコ」と呼んだのは、誰でも知っているほほえましいエピソードである。その夫人は、寡黙で、ものしずかで、みずから「口下手です」とおっしゃる。
  歌を愛し、酒を愛し、美術品を愛した。ことにあたっては即決、即断まさに実践の権化であった。私は、黒田君と倫子夫人に京都の清水寺観音さまの境内に瑩山禅師にかかわる建碑をはかった。清水寺の森貫主さま、大西寺務長さま、森庶務部長さまのご理解をいただいて成就したとき、私は、随所に黒田君の人間的魅力を大きく感じた。
  思い出せぱ、雲のように、次から次から湧きおこる。このへんでやめる。黒田君の生涯は、全力疾走の六十七年であった。
  黒田君、ほんとうに、ながいあいだ、いろいろ、たくさん、ありがとう。

(平成十七年一月二十二日付「中外日報」より転載)

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