成寿一覧表

■特集 白純老師二十七回忌 

白純和尚の人と功績

― 大田山光真寺を訪ねて ―

  善光寺御開山 栃木県大田原市大田山光真寺 第三十六世黒田白純大和尚は、善光寺先代住職 故大圓武志大和尚の父君にあたります。

光真寺の再建
  白純老師は幼少時、お母様が当時の光真寺住職雲巖愚白老師と再婚され、その後愚白老師の弟子となり、やがて光真寺を引き継ぎます。
  光真寺は昭和の初期に失火し、寺だけではなく近隣の市街地までも焼失させてしまいました。もともと大田原藩主の菩提寺であっただけに檀家の数は少なく、再建はなかなか進みませんでした。そこで、檀家を集めるために白純老師はさまざまな事業を進めます。例えば、寺に図書館をつくったり、街に子供会をつくったり、夏になると涼しい気候を利用して夏季休暇中の学生を預かり、指導者をつけて勉強を教えたり…。
  白純老師の後継者であり現在の光真寺の住職 黒田俊雄老師は、「先住さんは仕事が好きで、社会事業を積極的に行っていました」とお話になられます。
  消失より一、二年後には本堂をはじめ徐々に再建が進み、白順老師は光真寺の中興の祖となりました。

子を育て、弟子を育て
  白純老師のお子様は八人、全員男の子です。ご長男を幼いころお病気により亡くされましたので、次男 現在の光真寺住職俊雄老師、三男 ロサンゼルス禅センター仏真寺を開いた前角博雄師、四男 本清師、五男 会社社長明義氏、六男 横浜善光寺住職武志師、七男 東京桐ヶ谷寺住職純夫師、さらに、彫刻家で現在群馬大学教授の八男能勝氏。
  実の子供たちだけでなく多くの弟子を育て・慕われていました。そんな白純老師を俊雄老師は「人のことはよく面倒を見ましたが、子どもたちにはあまり口を利きませんでした。弟子も子どもも、面倒を見ている学生も、みんな同じように面倒を見ていました。おそらく子ども時代にいろいろと苦労したからでしょう」と回想します。「人づくり、寺づくりの名人」といわれたのも、その面倒見のよさからでしょう。「母も偉かったと思います。父よりも先に寝たことはなかったのではないでしょうか」

大本山縄持寺の再建に
  光真寺の復興が落ち着いてきた昭和二十年代後半から、白純老師は光真寺を俊雄老師に任せ、曹洞宗大本山総持寺の復興に力を注がれるようになりました。「総持寺の大祖堂を再建するころに、周囲の人々から推挙されて本山の副監院になりました。在任中には大祖堂は完成しませんでしたが、その基礎はつくったと思います」。その後、総持寺の顧問を長く務めただけでなく、大本山総持寺復興局長、全日本仏教会事務総長、曹洞宗審事院院長、曹洞宗宗議会議員、駒澤大学駒沢会会長、国際仏教興隆協会常任理事、日本宗教連盟参議、栃木県仏教会会長などの要職を歴任し、全日本仏教会事務総長時代には新興宗教との対話など、宗門を超えた活躍も見られました。「晩年まで総持寺の顧問をしていたので、光真寺に戻ってくるのは、お祭りとか大きな行事のときだけでした」。

  要職から退いて大田原に戻り、約一年後、昭和五十四年二月四日、世壽八十二歳をもって、黒田白純大和尚は遷化せられました。生前、曹洞宗大教師、黄恩衣、赤紫衣の位を授与せられ、特に大本山総持寺西堂位を追贈されました。

  俊雄老師は「兄弟の中でいちばん白純老帥に可愛がれていたのが生前の武志老帥だった」とお話になりました。武志老師はどんな些細なことでも父白純老師に相談をする。「いかなることも父母の意志に違わず、敬愛し続け、兄弟の中でも孝道を尽くした第一人者だった」それだけに白純老師の可愛がりようも特別だった。またその生き方は人を育て、人を立て、人を大切にする、これこそまさに、白純老師の生き様にオーバーラップしております。

  大田原市の市街地の一角に静かに佇む光真寺。広い境内には大田原藩主の霊廟と小高い丘に広がる墓苑があります。その墓苑には、白純老師の好きだったあじさい公園が大田原の街を見守るように位置し、本堂脇には八男能勝氏作 白純老師の胸像が境内を見守っています。

ページ先頭へ

  成寿一覧表