成寿一覧表

■大圓武志大和尚 遺稿

お も い や り の 心

― 禅仏教の展望と真の教育 ―

※ この論文は、黒田老師が2004年9月 米国ハーバード大学で行う予定だった講演会の予定稿です。

1.真の教育〜智慧と知識〜

  いま世界は疲れています。原因となる徴候は、様々な現象としてもたらされ、数えあげればキリがありません。また人間と自然界の間にも理解しがたい現象や恐怖、対処のしようもない出来事など想像だにしない複雑な苦悩の中にあります。「一体どうすれば」この苦悩と恐怖から逃げられるのか、社会生活の規範である道徳で救い得ないとするなら、「宗教」に求められる役割と責任は重大です。地球は、国は、社会は、個人は、興廃と疲労を遺し、いつ癒され、本来の姿に戻れるのか、大きな課題です。本会議のテーマは、実にその危機感と如何にすれば解決できるのか、仏陀の教える尊い真理に心を致し、今何か行動を起こす時だということを示唆しているように思います。宗教としての仏教、その一翼を担う仏教こそに究極の真理を求め、苦悩の本質を知って、その消滅と苦悩からの解放を理性的に体現させる必要性を今ほど感じる時はありません。しかし如何せん仏教を伝えるということは、安易ではありません。伝える者の素養として、事物の無常、皆苦、無我という理を実践体系的にもつ必要があります。
  さて真の教育とは何でしょうか? これにひとことで答えることは至難です。この問いに禅仏教の伝統にのっとって考えるならば、三つのキーワード、即ち、智慧、不断の実践、正しい生活、という言葉が浮かび上がってきます。 「仏教」は、文字通り私たち衆生が「仏になるための教え」でもあります。ではどうすれば仏になれるのか、その智慧とは、その洞察力とは、事物の本質に迫るとは、などに求めて私の信念とする仏教を述べてみたいと思います。
  多くの大学ではさまざまな分野の知識をカバーした教育プログラムを提供していますが、真の教育というものはデータやある種の技能の取得だけに関するものではありません。学歴や職歴を発展させ、また、我々が直面する世界的な問題と取り込もうとする若い人たちにとって知識というものは、特に21世紀の情報化時代、大切なものです。が、それだけでは充分ではありません。教育は、生活面での現実的満足という個人的レベルのものであれ、その時代の大きな問題を解決するという広いレベルのものであれ、ただ知識だけのものであってはならず、洞察力に富んだ智慧と解け合ったものでなければなりません。ここにおいて仏教的取り組みは、教育に対して貢献することができるだけではなく、21世紀の繁栄を目指す時になくてはならないものなのです。
  大乗仏教の伝統を伝える私たちの理想とする「菩薩」とは、智慧と思いやりの性格を備えたお方であるとよく言われます。ここで智慧(サンスクリットでprajnaプラジュニャ)というのは単なる知識ではなく、自己と世界の性質についての深い洞察のことです。知識はデータとして受け渡しができ、情報として記憶に残せるものですが、智慧はもっと深いものです。智慧は、深い理解や賢明な決断をするために心を如何に使うか、その洞察力を与えるものです。
  智慧は文殊菩薩にたとえられることがあります。禅仏教の通常の瞑想堂にはこの菩薩像が堂の中央部に安置されています。片手に剣を持っています。この剣は妄想と無知を切り払う能力を表わします。貧困、飢餓、環境破壊といった世界規模の諸問題の多くも妄想と無知の結果である場合が多いようです。人は困苦の源たる妄想や無知を切り払うことによって自己を自由にし、物事を明瞭に見ることができるのです。この仏教的取り組みはキリスト教でいう「真理は汝を自由にする」というのと非常によく似ています。智慧を養い真理を体得することは、仏教的生き方の重要な様相です。先に言いましたように、大乗仏教では「智慧」と「思いやり」の二つを重要なものと位置付けます。「智慧」が鳥の翼の一翼なら、「思いやり(サンスクリットでkarunaカルナ)」はもう一方の翼なのです。両翼がなければ鳥は飛べません。言い換えると、思いやりのない智慧は潤いがなく、消極的です。逆に、智慧を欠いた思いやりは誤った方向に行きかねません。
 このように、教育は存在する全てに対し深く思いやる心を養うことを重要とせねばなりません。昨今多くの教育機関の傾向である専門化や個人のキャリア志向、この是非はさておき、教育者にはなぜ教育に携わるのかという大きな心象図を先ず心に持つ必要があると思うのです。教育は、自分たちのためだけでなく遍く全体的なものへと「思いやり」を致せる心の育成、他の人や万物のためになるという生き方を果敢になしうる「智慧」の醸成が基本にあるべきであろうと考えます。
  私たちが賢くあり、明確な決意ができ、妄想や無知ではなく現実を踏まえることができるように、智慧をもって知識を補う必要があります。思いやりは、学習を通して世界全体のためになるように、専門化やキャリア志向という最近の教育傾向を補うために欠くことのできない大事な徳目です。

2.道元禅師の「止むことなき実践」〜生涯にわたる教育〜

  私は今日、日本の曹洞禅の伝統を代表する者として、ここで禅仏教の観点から教育について述べたいと思います。先ず、「禅とは何か?」を問う必要があります。本来「禅」は中国語の“Chan”からきたもので、これは沈思黙考、瞑想を意味するサンスクリットの概念“Dhyana”を転訳したものです。日本の禅仏教は主として三大宗派に分かれています。即ち、「栄西」(1141-1215)が開基した臨済宗、「道元」(1200-1253)を開祖とする曹洞宗、中国僧「隠元」(1592-1673)が開いた黄檗宗からなります。禅宗の真髄は次の言葉で要約することができます。「心の中を見よ、そうすれば仏教が会得されよう。」このように禅宗はこの会得につながる瞑想に重きを置いています。いわゆる禅とは我々の心が何かにこだわっている、とらわれている、そのこだわりやとらわれから心を自由に解放してやることなのです。私が属している曹洞宗は道元禅師が760年前に開いたものです。今日この宗派の寺院は全国に15,000あり、最大の檀信徒を擁しております。「道元」から第4代の禅師「瑩山」が普及に勤められた結果です。以後「瑩山」も創始者とみなされ、曹洞宗には釈迦牟尼仏の教えを正しく伝えた「二人の開祖」として尊ばれているわけです。
  さて、宗派の開祖「道元」の教えとして最も代表的な、最高傑作といわれるものは「正法眼蔵」です。仏陀が体現された事物の真の本質を如何に悟り、苦悩から解放されるかという実践的な方法を説いています。これは95巻と語録10巻からなり、宗門の根本著作となっています。原文は非常に難解とされています。原文の1節に「仏陀の道を学ぶことは、自己を知ることである。自己を知るということは、自己を忘れることである。自己を忘れるということは、幾千万の事物による確認を得ることである。幾千万による確認を得ることは自己と他者の身心から離脱することである」といっています。「正法眼蔵」に説かれる言葉は「智慧と思いやり」のある真の教育というものを簡潔に表しています。
  仏教を学ぶには先ず何よりも自己を知ること、即ち、己はいったい何者なのかを探求することにあり、人は自分を探求するにつれ自分を「忘れる」ようになる。現代に生きる自分は欲望を満足させることが価値だと思い込んでいるために、自分へのとらわれから離れないでいる。今日の時代まさにその最中に在る。自分の欲望にとらわれては、自己から抜け出すことはできない。大事なことは「自分を忘れる」ことだと教えている。自分の独自性と純粋性を得ようとこれまで蓄積してきた自分の知識、経験、差別心がなくなるにまかせるようになります。自己という牢獄から開放されると人は自然界、地球、全宇宙(幾千万の事物)とこの瞬間に一体となります。この真理の只中に生きるということは自由になることであり、他人の自由とともに(身心から離脱した)純粋生活の自由を経験することになります。これが真の智慧です。
  「自己を忘れる」という考えは現今の若い人々には非常に縁遠いものかもしれません。なぜなら、現代世界の多くの人々にとって人生は欲望に満ちていて、自己中心の利得が人々を駆り立てる唯一のものであるからです。けれども、そのような自己中心のライフスタイルは憎悪、競争、衝突、貧困、飢え、自然破壊、そして恐らくは究極的な人類の没落といったことに逃れ難くつながっています。
  我々は、「自分に、自分自身、そして自分」というものに固く縛られているように思えますが、実際には他人の思惑や外部の規範というものに動かされています。これこそは、道元の「自己を知る」ということなのです。重要なのは、自己を「千万の事物」や宇宙の中へ押しやるのではなく、まさに宇宙の一部であるかのような状態に自己をおいて宇宙を自然に顕現させることです。
  道元にとって自己発見はただ禅の瞑想実践を通してのみ得られるというものであり、この瞑想や「只管打坐(ひたすらに坐る)」は、目的やゴールを求めて行ずる坐禅瞑想であってはならないと云う。ことごとく目的のない瞑想、自己利益を伴なわない無条件の瞑想なのです。従って瞑想が啓蒙のためですらないという考えにつながります。この絶対的な立場は「究極の静謐の心境」と禅の伝統において呼ばれているものです。道元はここのところを、「身心脱落」といい、「身心」は人間を形成している一切を意味し、精神の存在とその卓越性が極めて明らかにされている。言い換えれば「悟り」とは、ある精神的な力を手に入れることを示しているように思う。
  例えば、この「究極の静謐の心境」は最も単純な行為に現れます。実際に汚れていようといまいと習慣的に洗うとか、当地タイ国で行われているように他人と挨拶を交わすときに敬意のしるしとして両手を合わせる、といったことはすべてそのような心の表現なのです。両掌を合わせるという行為は、日本では何かを祈念したい時、あるいは神社仏閣等を訪れ、うやうやしく手を合わせます。この手を合わせるという習慣は素晴らしいことです。しかしながら今日日本の若い人の間では、次第に見えられなくなりました。淋しいことです。これは古来「苦しいときの神頼み」という諺まで生まれています。
  この「究極的静謐の心」と「禅瞑想の実践」は道元の教える仏法と人間の問題であり重要な二本柱です。道元が意図した無条件の形で瞑想を実践するなら、その形自体が仏陀の姿です。そこには豊かな智慧と全ての事物の本質に対する明哲な洞察力をもつことになります。瞑想の精神を持続的に実践するという性質が大切なのです。ものを食べるときは、ただ食べればよいのです。食べ物の栄養とか健康上の価値とか味を考えるのではなく、ただ食べるのです。飲み物を飲むときも、それがお茶であればそのお茶の味のよしあしとか、お茶を飲む行為が心を癒したり何かのためになるかといった余分なことを付け加えずに、ただその瞬間に没入して飲むことに専心すべきなのです。これが「いまここ」ということなのです。
  道元が中国で修行中でのこと、彼はある寺を訪ねました。非常に暑い日でした。堂を連ねた中庭に一人の老僧侶が椎茸を干しています。灼熱のもと汗まみれになり、熱い石台に椎茸を一個一個取り出して丁寧に並べていました。彼は寺の料理長(典座)でした。道元は見るがまま出し抜けに「貴方のような尊いお方がどうしてこのきつい仕事を若い僧侶にさせないのですか」と問います。老僧は笑みを浮かべながら答えました。「他人の仕事は私の仕事ではありません」。道元はなおも「でもご自分の健康を考えれば、この炎天下なぜ一休みしないのですか」。これに対し「この瞬間は今ここにしかありません」と老僧が答えたとき、道元はショックを受け、愕然としました。青年僧道元にとっては思いもかけない通棒だったのでしょう。このことは言い換えれば、過去は決して取り戻せない。あたかも不確かな未来はひびの入った湯呑がいつどのように割れるかという不確と同じように知り得ないのです。現実の確かなことは「いまここ」にしかないのです。老僧が自分の健康のことや暑さのことなど全く無関心に、ひたすらあるがままのいまの瞬間に心を尽くしていることを道元は実感しました。老僧の実践が実に禅の瞑想実践と少しも違いがないことを理解するに至りました。いまここにひたむきに生きるという実践は誰もが日々の生活を人間らしく生き抜くことのできる智慧なのです。「究極の静謐の心」とは自然にあるがまま自由に生き、障害物もなく諸々の欲望に負けることもなく、また卑下することもない、思いやりの心をもって、誰に対しても優しい言葉で話しかけ、他人のためになることをよろこび、感謝しつつ唯頻々と奉仕の念に満たされるという在り方なのです。
  私たちが今日痛切に必要としているのは、「智慧と思いやり」の心であり、生活上の一体化なのです。この実践は継続的になされる「仏教心による不断の実践」(日本語で「行事」)であります。この意味するところは日々の生活は瞑想であるということ。或いは、私たちの目の前にある世界は、それがなんであれ、私たちが仏教の実践に身をゆだねることのできる修行の寺院である、ということです。言い換えると、真の教育はただ大学の教室での形式的な教育だけでなく、また、大学在学中の年月に限られたものでもなく、「止むことがない」ということなのです。年齢を問わず、どこに居ようと(家庭・職場等々)仏教徒の生活は仏道実践の場なのです。

3.正しい生活

  道元が海路中国に着いたのは1223年。しばらく停泊する船に留まって語学の習得に取り組みます。そんなころひとりの老僧が舟にしいたけを買いにやってきた。道元にとっては、はじめて見る彼の国の僧侶です。自室に請じてお茶をふるまう。道元は、僧院には料理する他の僧侶もいるはずだと考え、しばらくゆっくりしてゆくように頼みます。先に言いましたように彼はAyuwang山(愛育王山)の料理長だったのです。椎茸を買うために僧院から舟まで一日がかりの距離を徒歩でやってきた。老僧は料理長としての職務から脇道へそれることを拒んだのです。あなたのような尊いお方が、瞑想や公案研究に打ち込まず、なぜ他の僧侶のために未だ料理をしているのかと問う、「外国の人よ、未だ弁道を解せず、未だ文字を知り得ず」と。道元は自分の未熟さに気づき、更に問う「如何があらんかこれ文字、如何があらんかこれ弁道」。しかし老典座は応えず、解けねばわが寺へ来い、と。
  この経験は、道元の記憶に生々しく残り、1237年に完成した彼の「典座教訓」(料理人向け指導書)に記録されています。このマニュアルは、僧院料理人が他の修道僧たちに食事を与える正しい方法について道元が記したものですが、同時に料理を通して他人の肉体の栄養補給のみならず精神の安寧のためにも責任を持つ料理長に要求される態度にも言及されています。「典座教訓」によれば、手に入る材料がどのようなものであれ、可能な限り最善の食事を作ることが料理人の務めである、とあります。今日この洞察が日本の食文化の原点になっています。茶道も然りです。
  仏教の精神性には、意識の実践において見出された「洞察と思いやり」の質を以って世界と係りあう能力と瞑想の内的規律とが共に含まれます。故に「禅の料理人」になるために学ぶことは、自分の性癖から自分が生きている社会環境に至るまでのあらゆるものを含めて人生に存在する「材料」に光を投げかけることを意味します。「材料」に対するこの注意関心は、人生自体の糧を提供するために、即ち、世界と精神的に係りあうために、これらの原材料を巧みに使うことができるようになった出発点なのです。  
  自己を発見する課程において、世界との係わり合いは、キリスト教における職業あるいは天職の考えに相当するもの、即ち、仏教でいう「正しい生活」の概念で理解されるものにつながります。正しい生活というのは、世の中で正しく身を処する在り方として、いかにして暮らしていくかという点に関し仏陀が示した伝統的仏教の八重の道、第五番目の輻(や)なのです。仏教の実践は、全体として仏教の教義によって導かれる仕事や生涯職として、自己の経済的な生計に反映するための信仰治療者を必要とします。生涯職での成功とか金儲けが唯一最大の目的であるような教育モデルではなく、仏教徒としての教育への取り組み態度は、この精神、道徳的領域を包摂するものでなければなりません。  
  伝統的に仏教経典においては、正しい生活というものは、仏教の第一義を犯すという理由から生命を奪うことを認めていない。したがって仏教の道は究極的には苦悩の軽減にかかわるものであることから、積極的には、あらゆる存在物の生命を良くすることに役立つ生涯職を選ぶべきことを意味します。仏教は限りなく「生活の全て」、人間としての生き方即ち処世術として考慮すべきものと心得ます。この道は努力すべきある種の抽象的な理想というよりは、むしろ人が持って生まれた素材を「調理」することから生まれてくる人の道なのです。生得天賦の才能が何であれ、それを自分とこの世との係わり合いにおいて如何に正しく表現するかということです。即ちこれが仏教への説得力なのです。  
  このように真の教育というものは仏教界のあらゆる区分を越え、また他の諸宗教伝統の間を突き抜けて伸びる道であります。それは智慧や思いやりと融け合い、自己の真の性質やこの世の苦悩の軽減のために捧げられる全体的な学問観なのです。真の世界平和を実現し、地球と調和し、希望の光を未来に輝かせるもの、それは「仏教に根ざした真の教育」というこの精神なのです。

この論文は、黒田老師が2004年9月 米国ハーバード大学で行う予定だった講演会の予定稿です。

1.真の教育〜智慧と知識〜

  いま世界は疲れています。原因となる徴候は、様々な現象としてもたらされ、数えあげればキリがありません。また人間と自然界の間にも理解しがたい現象や恐怖、対処のしようもない出来事など想像だにしない複雑な苦悩の中にあります。「一体どうすれば」この苦悩と恐怖から逃げられるのか、社会生活の規範である道徳で救い得ないとするなら、「宗教」に求められる役割と責任は重大です。地球は、国は、社会は、個人は、興廃と疲労を遺し、いつ癒され、本来の姿に戻れるのか、大きな課題です。本会議のテーマは、実にその危機感と如何にすれば解決できるのか、仏陀の教える尊い真理に心を致し、今何か行動を起こす時だということを示唆しているように思います。宗教としての仏教、その一翼を担う仏教こそに究極の真理を求め、苦悩の本質を知って、その消滅と苦悩からの解放を理性的に体現させる必要性を今ほど感じる時はありません。しかし如何せん仏教を伝えるということは、安易ではありません。伝える者の素養として、事物の無常、皆苦、無我という理を実践体系的にもつ必要があります。
  さて真の教育とは何でしょうか? これにひとことで答えることは至難です。この問いに禅仏教の伝統にのっとって考えるならば、三つのキーワード、即ち、智慧、不断の実践、正しい生活、という言葉が浮かび上がってきます。 「仏教」は、文字通り私たち衆生が「仏になるための教え」でもあります。ではどうすれば仏になれるのか、その智慧とは、その洞察力とは、事物の本質に迫るとは、などに求めて私の信念とする仏教を述べてみたいと思います。
  多くの大学ではさまざまな分野の知識をカバーした教育プログラムを提供していますが、真の教育というものはデータやある種の技能の取得だけに関するものではありません。学歴や職歴を発展させ、また、我々が直面する世界的な問題と取り込もうとする若い人たちにとって知識というものは、特に21世紀の情報化時代、大切なものです。が、それだけでは充分ではありません。教育は、生活面での現実的満足という個人的レベルのものであれ、その時代の大きな問題を解決するという広いレベルのものであれ、ただ知識だけのものであってはならず、洞察力に富んだ智慧と解け合ったものでなければなりません。ここにおいて仏教的取り組みは、教育に対して貢献することができるだけではなく、21世紀の繁栄を目指す時になくてはならないものなのです。
  大乗仏教の伝統を伝える私たちの理想とする「菩薩」とは、智慧と思いやりの性格を備えたお方であるとよく言われます。ここで智慧(サンスクリットでprajnaプラジュニャ)というのは単なる知識ではなく、自己と世界の性質についての深い洞察のことです。知識はデータとして受け渡しができ、情報として記憶に残せるものですが、智慧はもっと深いものです。智慧は、深い理解や賢明な決断をするために心を如何に使うか、その洞察力を与えるものです。
  智慧は文殊菩薩にたとえられることがあります。禅仏教の通常の瞑想堂にはこの菩薩像が堂の中央部に安置されています。片手に剣を持っています。この剣は妄想と無知を切り払う能力を表わします。貧困、飢餓、環境破壊といった世界規模の諸問題の多くも妄想と無知の結果である場合が多いようです。人は困苦の源たる妄想や無知を切り払うことによって自己を自由にし、物事を明瞭に見ることができるのです。この仏教的取り組みはキリスト教でいう「真理は汝を自由にする」というのと非常によく似ています。智慧を養い真理を体得することは、仏教的生き方の重要な様相です。先に言いましたように、大乗仏教では「智慧」と「思いやり」の二つを重要なものと位置付けます。「智慧」が鳥の翼の一翼なら、「思いやり(サンスクリットでkarunaカルナ)」はもう一方の翼なのです。両翼がなければ鳥は飛べません。言い換えると、思いやりのない智慧は潤いがなく、消極的です。逆に、智慧を欠いた思いやりは誤った方向に行きかねません。
 このように、教育は存在する全てに対し深く思いやる心を養うことを重要とせねばなりません。昨今多くの教育機関の傾向である専門化や個人のキャリア志向、この是非はさておき、教育者にはなぜ教育に携わるのかという大きな心象図を先ず心に持つ必要があると思うのです。教育は、自分たちのためだけでなく遍く全体的なものへと「思いやり」を致せる心の育成、他の人や万物のためになるという生き方を果敢になしうる「智慧」の醸成が基本にあるべきであろうと考えます。
  私たちが賢くあり、明確な決意ができ、妄想や無知ではなく現実を踏まえることができるように、智慧をもって知識を補う必要があります。思いやりは、学習を通して世界全体のためになるように、専門化やキャリア志向という最近の教育傾向を補うために欠くことのできない大事な徳目です。

2.道元禅師の「止むことなき実践」〜生涯にわたる教育〜

  私は今日、日本の曹洞禅の伝統を代表する者として、ここで禅仏教の観点から教育について述べたいと思います。先ず、「禅とは何か?」を問う必要があります。本来「禅」は中国語の“Chan”からきたもので、これは沈思黙考、瞑想を意味するサンスクリットの概念“Dhyana”を転訳したものです。日本の禅仏教は主として三大宗派に分かれています。即ち、「栄西」(1141-1215)が開基した臨済宗、「道元」(1200-1253)を開祖とする曹洞宗、中国僧「隠元」(1592-1673)が開いた黄檗宗からなります。禅宗の真髄は次の言葉で要約することができます。「心の中を見よ、そうすれば仏教が会得されよう。」このように禅宗はこの会得につながる瞑想に重きを置いています。いわゆる禅とは我々の心が何かにこだわっている、とらわれている、そのこだわりやとらわれから心を自由に解放してやることなのです。私が属している曹洞宗は道元禅師が760年前に開いたものです。今日この宗派の寺院は全国に15,000あり、最大の檀信徒を擁しております。「道元」から第4代の禅師「瑩山」が普及に勤められた結果です。以後「瑩山」も創始者とみなされ、曹洞宗には釈迦牟尼仏の教えを正しく伝えた「二人の開祖」として尊ばれているわけです。
  さて、宗派の開祖「道元」の教えとして最も代表的な、最高傑作といわれるものは「正法眼蔵」です。仏陀が体現された事物の真の本質を如何に悟り、苦悩から解放されるかという実践的な方法を説いています。これは95巻と語録10巻からなり、宗門の根本著作となっています。原文は非常に難解とされています。原文の1節に「仏陀の道を学ぶことは、自己を知ることである。自己を知るということは、自己を忘れることである。自己を忘れるということは、幾千万の事物による確認を得ることである。幾千万による確認を得ることは自己と他者の身心から離脱することである」といっています。「正法眼蔵」に説かれる言葉は「智慧と思いやり」のある真の教育というものを簡潔に表しています。
  仏教を学ぶには先ず何よりも自己を知ること、即ち、己はいったい何者なのかを探求することにあり、人は自分を探求するにつれ自分を「忘れる」ようになる。現代に生きる自分は欲望を満足させることが価値だと思い込んでいるために、自分へのとらわれから離れないでいる。今日の時代まさにその最中に在る。自分の欲望にとらわれては、自己から抜け出すことはできない。大事なことは「自分を忘れる」ことだと教えている。自分の独自性と純粋性を得ようとこれまで蓄積してきた自分の知識、経験、差別心がなくなるにまかせるようになります。自己という牢獄から開放されると人は自然界、地球、全宇宙(幾千万の事物)とこの瞬間に一体となります。この真理の只中に生きるということは自由になることであり、他人の自由とともに(身心から離脱した)純粋生活の自由を経験することになります。これが真の智慧です。
  「自己を忘れる」という考えは現今の若い人々には非常に縁遠いものかもしれません。なぜなら、現代世界の多くの人々にとって人生は欲望に満ちていて、自己中心の利得が人々を駆り立てる唯一のものであるからです。けれども、そのような自己中心のライフスタイルは憎悪、競争、衝突、貧困、飢え、自然破壊、そして恐らくは究極的な人類の没落といったことに逃れ難くつながっています。
  我々は、「自分に、自分自身、そして自分」というものに固く縛られているように思えますが、実際には他人の思惑や外部の規範というものに動かされています。これこそは、道元の「自己を知る」ということなのです。重要なのは、自己を「千万の事物」や宇宙の中へ押しやるのではなく、まさに宇宙の一部であるかのような状態に自己をおいて宇宙を自然に顕現させることです。
  道元にとって自己発見はただ禅の瞑想実践を通してのみ得られるというものであり、この瞑想や「只管打坐(ひたすらに坐る)」は、目的やゴールを求めて行ずる坐禅瞑想であってはならないと云う。ことごとく目的のない瞑想、自己利益を伴なわない無条件の瞑想なのです。従って瞑想が啓蒙のためですらないという考えにつながります。この絶対的な立場は「究極の静謐の心境」と禅の伝統において呼ばれているものです。道元はここのところを、「身心脱落」といい、「身心」は人間を形成している一切を意味し、精神の存在とその卓越性が極めて明らかにされている。言い換えれば「悟り」とは、ある精神的な力を手に入れることを示しているように思う。
  例えば、この「究極の静謐の心境」は最も単純な行為に現れます。実際に汚れていようといまいと習慣的に洗うとか、当地タイ国で行われているように他人と挨拶を交わすときに敬意のしるしとして両手を合わせる、といったことはすべてそのような心の表現なのです。両掌を合わせるという行為は、日本では何かを祈念したい時、あるいは神社仏閣等を訪れ、うやうやしく手を合わせます。この手を合わせるという習慣は素晴らしいことです。しかしながら今日日本の若い人の間では、次第に見えられなくなりました。淋しいことです。これは古来「苦しいときの神頼み」という諺まで生まれています。
  この「究極的静謐の心」と「禅瞑想の実践」は道元の教える仏法と人間の問題であり重要な二本柱です。道元が意図した無条件の形で瞑想を実践するなら、その形自体が仏陀の姿です。そこには豊かな智慧と全ての事物の本質に対する明哲な洞察力をもつことになります。瞑想の精神を持続的に実践するという性質が大切なのです。ものを食べるときは、ただ食べればよいのです。食べ物の栄養とか健康上の価値とか味を考えるのではなく、ただ食べるのです。飲み物を飲むときも、それがお茶であればそのお茶の味のよしあしとか、お茶を飲む行為が心を癒したり何かのためになるかといった余分なことを付け加えずに、ただその瞬間に没入して飲むことに専心すべきなのです。これが「いまここ」ということなのです。
  道元が中国で修行中でのこと、彼はある寺を訪ねました。非常に暑い日でした。堂を連ねた中庭に一人の老僧侶が椎茸を干しています。灼熱のもと汗まみれになり、熱い石台に椎茸を一個一個取り出して丁寧に並べていました。彼は寺の料理長(典座)でした。道元は見るがまま出し抜けに「貴方のような尊いお方がどうしてこのきつい仕事を若い僧侶にさせないのですか」と問います。老僧は笑みを浮かべながら答えました。「他人の仕事は私の仕事ではありません」。道元はなおも「でもご自分の健康を考えれば、この炎天下なぜ一休みしないのですか」。これに対し「この瞬間は今ここにしかありません」と老僧が答えたとき、道元はショックを受け、愕然としました。青年僧道元にとっては思いもかけない通棒だったのでしょう。このことは言い換えれば、過去は決して取り戻せない。あたかも不確かな未来はひびの入った湯呑がいつどのように割れるかという不確と同じように知り得ないのです。現実の確かなことは「いまここ」にしかないのです。老僧が自分の健康のことや暑さのことなど全く無関心に、ひたすらあるがままのいまの瞬間に心を尽くしていることを道元は実感しました。老僧の実践が実に禅の瞑想実践と少しも違いがないことを理解するに至りました。いまここにひたむきに生きるという実践は誰もが日々の生活を人間らしく生き抜くことのできる智慧なのです。「究極の静謐の心」とは自然にあるがまま自由に生き、障害物もなく諸々の欲望に負けることもなく、また卑下することもない、思いやりの心をもって、誰に対しても優しい言葉で話しかけ、他人のためになることをよろこび、感謝しつつ唯頻々と奉仕の念に満たされるという在り方なのです。
  私たちが今日痛切に必要としているのは、「智慧と思いやり」の心であり、生活上の一体化なのです。この実践は継続的になされる「仏教心による不断の実践」(日本語で「行事」)であります。この意味するところは日々の生活は瞑想であるということ。或いは、私たちの目の前にある世界は、それがなんであれ、私たちが仏教の実践に身をゆだねることのできる修行の寺院である、ということです。言い換えると、真の教育はただ大学の教室での形式的な教育だけでなく、また、大学在学中の年月に限られたものでもなく、「止むことがない」ということなのです。年齢を問わず、どこに居ようと(家庭・職場等々)仏教徒の生活は仏道実践の場なのです。

3.正しい生活

  道元が海路中国に着いたのは1223年。しばらく停泊する船に留まって語学の習得に取り組みます。そんなころひとりの老僧が舟にしいたけを買いにやってきた。道元にとっては、はじめて見る彼の国の僧侶です。自室に請じてお茶をふるまう。道元は、僧院には料理する他の僧侶もいるはずだと考え、しばらくゆっくりしてゆくように頼みます。先に言いましたように彼はAyuwang山(愛育王山)の料理長だったのです。椎茸を買うために僧院から舟まで一日がかりの距離を徒歩でやってきた。老僧は料理長としての職務から脇道へそれることを拒んだのです。あなたのような尊いお方が、瞑想や公案研究に打ち込まず、なぜ他の僧侶のために未だ料理をしているのかと問う、「外国の人よ、未だ弁道を解せず、未だ文字を知り得ず」と。道元は自分の未熟さに気づき、更に問う「如何があらんかこれ文字、如何があらんかこれ弁道」。しかし老典座は応えず、解けねばわが寺へ来い、と。
  この経験は、道元の記憶に生々しく残り、1237年に完成した彼の「典座教訓」(料理人向け指導書)に記録されています。このマニュアルは、僧院料理人が他の修道僧たちに食事を与える正しい方法について道元が記したものですが、同時に料理を通して他人の肉体の栄養補給のみならず精神の安寧のためにも責任を持つ料理長に要求される態度にも言及されています。「典座教訓」によれば、手に入る材料がどのようなものであれ、可能な限り最善の食事を作ることが料理人の務めである、とあります。今日この洞察が日本の食文化の原点になっています。茶道も然りです。
  仏教の精神性には、意識の実践において見出された「洞察と思いやり」の質を以って世界と係りあう能力と瞑想の内的規律とが共に含まれます。故に「禅の料理人」になるために学ぶことは、自分の性癖から自分が生きている社会環境に至るまでのあらゆるものを含めて人生に存在する「材料」に光を投げかけることを意味します。「材料」に対するこの注意関心は、人生自体の糧を提供するために、即ち、世界と精神的に係りあうために、これらの原材料を巧みに使うことができるようになった出発点なのです。  
  自己を発見する課程において、世界との係わり合いは、キリスト教における職業あるいは天職の考えに相当するもの、即ち、仏教でいう「正しい生活」の概念で理解されるものにつながります。正しい生活というのは、世の中で正しく身を処する在り方として、いかにして暮らしていくかという点に関し仏陀が示した伝統的仏教の八重の道、第五番目の輻(や)なのです。仏教の実践は、全体として仏教の教義によって導かれる仕事や生涯職として、自己の経済的な生計に反映するための信仰治療者を必要とします。生涯職での成功とか金儲けが唯一最大の目的であるような教育モデルではなく、仏教徒としての教育への取り組み態度は、この精神、道徳的領域を包摂するものでなければなりません。  
  伝統的に仏教経典においては、正しい生活というものは、仏教の第一義を犯すという理由から生命を奪うことを認めていない。したがって仏教の道は究極的には苦悩の軽減にかかわるものであることから、積極的には、あらゆる存在物の生命を良くすることに役立つ生涯職を選ぶべきことを意味します。仏教は限りなく「生活の全て」、人間としての生き方即ち処世術として考慮すべきものと心得ます。この道は努力すべきある種の抽象的な理想というよりは、むしろ人が持って生まれた素材を「調理」することから生まれてくる人の道なのです。生得天賦の才能が何であれ、それを自分とこの世との係わり合いにおいて如何に正しく表現するかということです。即ちこれが仏教への説得力なのです。  
  このように真の教育というものは仏教界のあらゆる区分を越え、また他の諸宗教伝統の間を突き抜けて伸びる道であります。それは智慧や思いやりと融け合い、自己の真の性質やこの世の苦悩の軽減のために捧げられる全体的な学問観なのです。真の世界平和を実現し、地球と調和し、希望の光を未来に輝かせるもの、それは「仏教に根ざした真の教育」というこの精神なのです。

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