成寿一覧表

成寿 第37号 盂蘭盆会法要法話
心の器、身を調える


曹洞宗関東管区主監・栃木県明林寺住職西田正法老師

平成十八年七月、善光寺では恒例の「盂蘭盆施食法会」が午前十一時と午後二時の二回にわけて行われました。明林寺住職で曹洞宗関東管区教化センター主監の西田正法老師のご法話に、日頃の生活のなかでの信仰のあり方について、改めて考えてみる機会をいただきました。

お唱えの持つ力

  只今皆さんに「三帰依文」をご一緒にお唱え頂きましたが、見事なお唱えでした。お世辞で申し上げるのではありません。法話の前には、何処の会場でも必ずこの三帰依文をお唱えして頂くのですが、第一声からこれほど見事に揃うお唱えに出会うことは滅多にないことです。「段々良くなる法華の太鼓」ではありませんが、一度目はお互いに様子をみながら、二度目で何とか揃いだし、三度目でやっとお唱えらしくなる、というのが一般的です。
  今日ここにお集まりの皆さんが、本日の法要に真剣に臨まれていることがヒシヒシと伝わって参りました。お唱え中、「これだけのお唱えが出来るなら今日はお話をしなくてもいいな」と、思った程です。信心決定という言葉がありますが、皆さんの一途なお唱えに、この「信心決定」揺るぎなく定まった信仰心を感じました。
  さて、心は目に見えません。私達の信仰の心も目には見えない。その目に見えない信仰心を表明するのが、手を合わせる、拝む、礼拝する、或いはお唱えや読経という行為です。信仰を自らの体で表現するのです。   以前、或るお寺にお説教を頼まれてお邪魔したのですが、ご本堂に入りきれないほどお参りの方があって、境内に大きなテントが張られ百人近い人達が本堂に向かってお座りでした。そして、外部用のスピーカーを通して実に上手なお話の声が流れているのです。満座の聴衆は楽しそうに話に聞き入り、時々大声で笑うのです。境内に入った私に気付く人などありません。私は、一時から法話とのご依頼を受けていたのですが、既にどなたか相当な方がお話をされているのです。「妙だな?」と思いながら庫裏を訪ね御住職に伺ったところ、「例年、法話の前に余興として落語家さんに一席お願いしている」とのことでした。
  スピーカーから、「それではお後が宜しいようで」との声が聞こえ、落語家さんと交代で私がご本堂へ。ご本堂に入って驚いたのは、その場の空気でした。一時間近くプロの落語家さんが講演した直後の空気は、笑いの余波がそのまま残っていて堂内の空気そのものが渦を巻いているようで何とも陽気というか、厳かさに欠けていたのです。「とても、お釈迦様の教えをお話しする雰囲気ではないな」というのが、率直な感想でした。だからといって逃げ帰るわけにもゆきません。覚悟を決めて「三帰依文」をお唱え致しました。するとどうでしょう、僅か三、四分前の雰囲気が嘘のように、渦巻いているように感じた空気は、水を打ったように静まっているではありませんか。
  昔から、お説教の前に「開経褐」や「機悔文」そして「三帰依文」をお唱えしてきた意味が歴然としました。お参り下さっている皆さんが、自らお唱えすることによって、自らの心のチャンネルを仏様に合わせるのです。僅か五分足らずの時間ですが、姿勢を正し、左右の掌を隙間が出来ないようにピッタリ合わせ、口に「三帰依文」を唱えることで、心の有り様がガラッと変わるのです。私自身、頭では分かっていたことですが、かくも効果が覿面であることに大変驚かされました。一人や二人の人が変わったのではなく、ご本堂の中、更に屋外のテントの中の雰囲気がすっかり変わってしまったのです。満座の人々の心のチャンネルが、笑いから法話の周波数に合わされ、仏様の教えを受け入れることが出来る状態になっていたのです。


功徳(行いによって現われ、はたらき身につく功)

  福井県の浄土宗のお寺で、一日五時間半に及ぶ「経典講座」の講師を仰せつかったことがありました。午前九時開講ど聞いておりましたので、八時半前にお邪魔致しましたら、既にご本堂では「南無阿弥陀仏」のお念仏が始まっておりました。「もう、お勤めをされているんですか?」との私の問いに、「八時からお勤めをして頂いております」と、御住職。「今日の『経典講座』とは関係ないのですか?」と私。「いえ、いえ、先生のお話を聞くために一時間ほどお念仏をして頂いているんです」と、当たり前のように住職さんがお答えになられました。
  浄土宗では、私達曹洞宗と違い、お話をする僧侶はご本尊様をお祀りしている内陣から聴衆の前に姿を出すのです。つまり、聴衆はお説教をする僧侶を阿弥陀様として迎えるわけです。阿弥陀様としてお迎えする為に一時間もお念仏し、自分の心を阿弥陀様に合わせてゆくのだそうです。この日は、永平寺からやって来た私、西田を他宗の僧侶にも拘わらず、合掌しお念仏を口に唱えながら、阿弥陀様としてお迎えして下さったのです。
  更に驚いたことには、講話の内容が大事な処にさしかかると誰ということなく「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」と、手を合わせて唱え出すのです。最初は戸惑いましたが、慣れてくると話し手にとっても実に調子が良いもので、熱が入るんですね。聞き手の勘の良さというか、法話を聞く耳の素晴らしさに驚嘆致しました。これも、お話を聞く前に「南無阿弥陀仏」と一時間お念仏をお勤めして、心を仏法に合わせていればこそ可能なことなのではないでしょうか。
  ご利益と同義に使われる言葉に「功徳」という言葉がありますが、正にお念仏の功徳だと思います。功徳とは、自らの行いを仏様に合わせることによって、心のはたらきも仏様にピッタリあってくることです。仏行によって仏心が現はたらわれるのです。仏様の徳が功きだすのです。
  「今日は、法話も聞いて、ご先祖さまの御供養もしたし、きっと功徳があるだろうから宝くじでも買って帰ろう」なんて考えても駄目ですよ。そういう功徳はありませんから。


身と口と心と

  一般的に「心身」と言いますが、仏教では、「身心一如」という言葉でも分かるように、身と心の順番が逆になります。心は身の処し方、つまり、心の器である体をどう使うか、口にどのような言葉を語るかで心の状態が変わってくると観察したのです。ですから身を先にします。坐禅が端的に表しているのですが、坐禅はお釈迦様のお姿をそのまま頂いているでしょ。
  皆さん、ご家庭の中で覚えがありませんか。朝食の時間、ご主人がお味噌汁を一口すすって「おい! 味噌汁がしょっぱいじゃないか、血圧高いんだから気をつけろよ!」と。売り一言葉に買い言葉「しょっぱかったらお湯で割ればいいでしょ! 大きな声出して、威張るならもっと稼いでからにしてよ!」と、奥さん。段々エスカレートして、しまいに言わなくてもいい事まで言い出す。「何よ、あたしだって好きであんたと一緒になったわけじゃないのよ。好きな人に振られて自棄であんたなんかと一緒になっちゃったのよ」と。まあ、こんなにひどいことはないでしょうが、「売り言葉に買い言葉」、多少身に覚えはないですか?
  これも、口に出す言葉からもたらされる心のはたらきです。同じ口で「三帰依文」を唱えると心が落ち着き、乱暴な言葉を口にすれば益々心がささくれ立つのです。「味噌汁がしょっぱい」と一言われたら、「あらっ、御免なさい。あなた最近お疲れのようだったから、ちょっとお味噌多めにしてみたの」と言えば、「ああ、気を遣わせて済まないな、お湯を入れるから大丈夫だよ」となります。言葉一つの使いようで、お互いの心持ちがまったく変わるのです。お釈迦様は、人間の全ての行いを、身と口と意に分類して「身・口・意の三業」と説かれました。口も体の一部なのに、口で語る言葉を身と分け、心を表す言葉なのに心とも別にされました。これは、実に深い人間観察だと思います。
  最近、若者の言葉が大変乱れています。「ウザイ、ウザッテー」「ムカツク、チョームカツク」「キモイ」等々、管理された社会の中で遣り場のない気持ちが生んだ言葉なのかも知れませんが、「口業」という立場で見ると大変危険であることが分かります。
  「ムカツクんだよ!」という言葉では、何故ムカムカする程腹が立つのか自分の気持ちが整理されないのです。「俺だって悩んでいるのに、次から次へと言われたらどうして良いか分からずに、イライラするじゃないか。少し自分で考える時間を頂戴よ」と言えば、多少乱暴でも相手にも気持ちが伝わるし、自分が何故腹が立つのかも分かります。ところが、「ムカツクんだヨ!」の一言では相手に気持ちが伝わらないばかりか、自分自身の心さえ分からず、乱暴な言葉を発することで感情は更に高揚し、次にくるのは暴力や反社会的な破壊行為になってしまいます。乱暴な言葉によって心は更に乱れ行為は凶暴なものになってしまうのです。身口意の三業とは決して別物ではありません。相互に深く関係しあっているのです。だから、身心一如なのです。因みに、「業」とは身で行ったこと、口で語ったこと、心で思ったこと、それらのことが蓄積されて自分自身の人となりを形成してゆく力のことです。身口意の行いは、場面場面で消えて行くように感じられますが、習慣力となって蓄積し、自らを為したような自分として作り上げて行く、その力を業ど言います。皆さんも、「善因善果・悪因悪果」という言葉をお聞きになったり、ご自身使ったりしておいでかと思いますが、この言葉は業という力をよく表しています。善悪というと、私達はつい道徳的善悪や法律や倫理を基準に考えがちですが、仏教の説く善はお覚りを開かれたお釈迦様の御人格に近づくことであり、またその為に説かれた教えを実践することです。悪は、お釈迦様から遠ざかること、お釈迦様に背を向けた行動に走ることです。「お釈迦様の教えを守って生活しているのにちっとも給料が上がらないじゃないか、善因善果なんて嘘っぱちだ」と考えるのは、仏教が分かっていないからです。善い結果が現われるというのは世間的な価値ではありません。仏教の教えに適った人格を得るということなのです。仏教は性善説も性悪説も採りません。ただ自分の行いによって善ともなり悪ともなる、と説くのです。体で何を行い、口にどんな言葉を語り、心で何を思って過ごすかで自分を形作っていく、それが「業」というものです。
  だからこそ、行為や言葉を大切にしなければなりません。立ち方、歩き方、食べ方、座り方、話し方、日常の一挙手一投足が、一言一言が自分を形作ってゆくのですから。この仏教の教えに照らしたら、コンビニエンスストアーの駐車場に座り込み、飲み物や食べ物を広げていてはいけないのです。口を開けば「ウザイ、キモイ、ムカツクー」としか語らないようでは大変なことになるのです。


形のない心だからこそ形に表す

  心そのものには形はありません。見ることも見せることも出来ません。しかし、形の無い心ですが形に表れますよね。言葉や態度にその人の心を見ることが出来ます。逆にコロコロと定まり無く変化し形を持たない心に形を与えることも出来ます。それも言葉や態度です。誤解しないで下さい。何も言葉や態度で人を騙そうという話ではありませんよ。私達は誰だって毎日を安心して過ごしたいと願っています。でも、そう願いながらも悲しみや不安に捕らわれたり、思い通りにならない現実に苛立ったり苦しんだりしているのではないでしょうか? その心を、安心させてくれるのが信仰や信心です。心を信心信仰の中に修めるためには、言葉や態度を信心信仰の形にしなげればなりません。
  福井県の永平寺を開かれた道元禅師様に、「礼拝」と題されたお詠があります。
   冬草も見える雪野のしらさぎはをのが姿に身をかくしけり
  礼拝とは、お釈迦様への帰依を形に表した姿のことで、「五体投地」と言って両手、両足、そして額を地に着け、五体を投げ出した形で、両の掌にお釈迦様の両足を戴き自らの頭の上に掲げるのです。自分の額を大地に着け、大地を踏んでいたお釈迦様の足を頭上に掲げる行為は、何を表しているのでしょう。
  顔や頭というのは、実は私達の我の象徴です。俺が、私が、のガです。だから、「頭ごなし」とか「顔が立たない」とか「頭を押さえる」というように、自分が中心になれない時に使うでしょ。その顔を大地に着けお釈迦様の足を頭の上に掲げるのですから、「全てお釈迦様にお任せ致します」との気持ちを全身を投げ出して表すのです。手を合わせるのも、お釈迦様と自分を一つにする事です。それを行うことで、心もそのようになるのです。
  白一色の雪原に舞い降りた白鷺は、自らの白い色によって大地と見分けがつかない。との内容のお詠ですが、礼拝というものが自我を出さず仏様と同化する行いであることを見事に読み込んだお詠ですね。
  では、ここで具体的に考えてみましょうか。今日、法要も済んで、皆さんが家に向かう途中で雨が降ってきたとします。家に着くと網戸のままでサッシが閉まっていない。ついお嫁さんに腹が立って「あなた何してたのよ、湿気が入るでしょ」と、つい先ほどまでご先祖様のご供養をして清々しい気持ちでいた心は何処へやら、お嫁さんが「エアコンをドライにすれば済むことでしょ」などと一言ったらもう大変です。そんな時、カチンと来たのをグッとこらえて、先ずお仏壇の前に座ってお線香を立てて、「行って参りました。そして、お陰様で無事帰って参りました」とご先祖様に報告したら、カチンと来た気持ちは綺麗に消えて清々しさが戻って来ます。もし、雨が降って、家のサッシが開いていたら試してみて下さい(笑)。
  私達に安心をもたらす信仰は、ちゃんと形にしないと駄目なんですね。


七転八起お達磨さん

  縁起物で知られる七転八起の達磨さん、選挙になると必ず登場する起きあがり小法師の達磨さんです。皆さんよくご存知ですよね。あの達磨さんが七転八起の縁起物となっているのには、大変大事な意味があるんです。そもそも達磨さんのモデルは、インドから中国に坐禅を伝えて下さった達磨大師、菩提達磨大和尚なのですが、極寒の崇山少林寺で頭からスッポリ被をかぶって坐禅している姿を象ったのが達磨さんになっているのです。足を組み、手を組んで坐禅している姿です。手も足も出ない、ではなくて、手も足も出せないのです。背骨を地球の真ん中に真っ直ぐ立てて、右にも左にも傾かない。つまり、こっちが得だ、あっちが安い、これは儲かる、あれは損だ、と右往左往しないのです。そして、前にもくぐまらず、後ろに仰ぐこともない。つまり、卑屈になって落ち込むこともなく、大きな気になって尊大にならないということです。坐禅は姿勢が調ったら、息を調えます。息という字は自らの心と書くでしょ。丹田息、そう腹式呼吸です。私達が活動している時は胸式呼吸ですが、心と体を安定させるには腹式呼吸が良いのです。だから、私達は無意識のうちに睡眠中は白然に腹式呼吸をしているじゃないですか。坐禅は心を表す息を意識して腹式呼吸にすることで、頭に上っていた血を下げるのです。すると、あの起きあがり小法師の達磨さんのように重心が下に下がり安定します。重心が下にあるから、転んでも転んでも起きあがれるのです。七転八起の所以です。私達は、困難に出逢うとつい考え込んでしまい、頭に血が上ってしまいがちです。頭に血が上って熱くなってしまったのでは、転びやすく、また起ちあがることも出来ません。そんな時こそ、姿勢を調え息を調えて、あの達磨さんになるのです。そう、七転八起の、必ず起きあがることの出来る達磨さんです。怒りや激情に駆られた時、悲しみや苦しみに出逢った時、達磨さんを思い出して真似して下さい。心は、心で調えることは出来ないのです。常に流動的で形の無い心を、形の無い心で制御しようとしても不可能です。「水は方円の器に従う」と言うでしょ。形の無い水は、四角い器に入れれば四角く、円い器に入れれば円く収まるのです。心の。器である体を正しく調えることが、心を正しく調え安心安定を得る道なのです。


悲しみ苦しみを超える道

  今日、この法要にお集まりの皆さんは、どなたもお身内を亡くされた方ばかりです。未だお連れ合いを亡くされて数ケ月も経っていない方、既に何年も経っている方、様々だと存じます。親御さんにしても配偶者にしてもお身内との死別は辛いものです。特に、お子さんに先立たれた方のご心中などは、他の人には推測しきれないものがあると思います。
  昨年、四国の瑞応寺で修行中に出逢ったお爺さんのお語をさせて戴きました。党えていらっしゃいますか? 一年足らずの間に、一人息子さんとそのお嫁さんに先立たれ、残ったお孫さん二人を一生懸命育てておられたお爺さんのこと。息子さんは交通事故で三十五歳で突然他界、お嫁さんはそのショックから精神的に病んでしまい、幼稚園児の男の子二人を残して自ら命を断ってしまったのです。お爺さんは、息子さんのお嫁さんを守ってやることの出来なかった申し訳なさに、息子さんのお位牌に詫びたと言います。そして、息子さんとそのお嫁さんに罪減ぼしの思いで誓ったことは、残されたお子さん二人を祖父である自分の手で必ず育てあげます、ということでした。お爺さんの悪戦苦闘の毎日が始まります。炊事や洗濯そして育児、どれもお爺さんにとって慣れないことばかりです。「自分が育ててみせる」との思いで必死に頑張ったそうです。しかし、お嫁さんの二七日の晩、愕然としなければならない事実を知らされます。お孫さんを寝かしつけているうちにうたた寝をしてしまい、起き上がろうとすると体が重くて動けない、疲れが溜まっていたのでしょうね。そんなご自分に気づき、孫が成人するまで何年元気でいればいいのかと、思いではなく現実に目を向けたのだそうです。すると十六年は頑張らなくてはならない、可能か? いや無理だ、九十一歳じゃないか、じゃあ何年、何歳までなら可能なのか? 「こう考えた時、和尚さん、儂は至極当たり前の事実を知って愕然としました」とおっしゃるのです。「和尚さん、人間の命なんて明日必ず生きているという保証がないんですね。当たり前過ぎる事実に愕然としました」と続けられました。
  この事実に直面したお爺さんが、考えに考えた末出した結論は、孫を天国の親の元に送って自分も死のう、ということでした。両親に続いて、たった一人残った自分の死に立ち会わせたのでは、余りにもお孫さんが不憫だと考えたのだそうです。お爺さんは、お嫁さんの三十五日忌をその日と定め、その日まで精一杯お孫さんに愛情を注ぎ込んだと言います。そして、その日。仏教保育を実践する「ひかり幼稚園」から帰ったお孫さんが最初にしたことは、お母さんの霊檀にお線香を立て、二人伸良く手を合わせ「われらは仏の子どもなり うれしい時も悲しい時も お手々を合わせておがみます♪」と、幼稚園で歌う仏様の歌を歌い出したのだそうです。お爺さんもお孫さんの後ろで極自然に手を合わせて聞いていると「お祖父ちゃんも歌おッ!」とせがまれ、息子さんと遠い昔歌ったその歌を一緒に歌ったのだそうです。すると、目の前に並んでいるお孫さんの背中が一つに重なって、園服も今のものではなく息子さんが着ていたものに変わり、そこに座っていたのは紛れもなく幼稚園時代の息子さんだったというのです。
 「儂は、ドキッとしました。そして、考えました。もし儂が今日死ぬとして、自分の子どもだったら不憫だからといって道連れにするだろうかと」
  お爺さんは、ご自分の考えが間違っていたことを悟ります。親だったら、自分の分まで生きて欲しいと願うはずだと。そして、お爺さんは更に続けて言いました。「和尚さん、儂は信心深い人間のつもりで生きて来たが、儂の信心なんてものはまだまだいい加減なものでした。嬉しい、有り難い、自分にとって都合の良い事には手を合わせて来ましたが、辛い事、悲しい事に手を合わせたことなんか一度もなかった。だって、あの歌は、嬉しい時も悲しい時もお手々を合わせて拝みます、って言っているじゃないですか」。その時からお爺さんは、息子さんやお嫁さんの死、そして残されたお孫さん、全てを仏様のはからいと手を合わせて頂くことにしたというのです。そう思えるようになったら、同じ炊事や洗濯、子育てが、頑張っていた時のように辛くなくなったのだそうです。「命がある間精一杯仏様から授かった孫の世話をさせて戴きます」と、お爺さんは話を結ばれました。
  お嫁さんの四十九日のご供養にうかがった時に、お爺さんから聞かせて戴いたお話です。素晴らしい方だと思いました。僧侶である私が逆にお爺さんに導かれていました。
  ここにお集まりの皆さんなら、お爺さんの悲しみや辛さをご理解頂けると思います。そして、その悲しみや辛さを超えてしっかり歩き出された素晴らしさを共に賞賛して頂けると思います。亡き方に対して、何時までも「何故私を置いて先に行ってしまったの」と、嘆き悲しむことは自分のためにも亡き方のためにもなりません。そうでしょ。
  嘆き悲しんでいるということは、亡き方が残された方を苦しめていることになるんです。亡き方が仏さまになるのではなく、皆さんに苦しつみを与えているということから罪人になってしまうのです。そんなことは、皆さんの中のどなたも望んでおられないことでしょう。ならば、亡き方の死を大事な教えとして受け取り、「悲しく辛いことでしたが、あなたの死によって私はこんなことを学び、今こうして生きています」と報告出来る自分にならなげればなりません。それが、亡き方を「仏」にするということです。
  皆さんは、亡き方、仏さまのご供養のためにこうして御遠方より善光寺さんまでそのお体をお運び下さり、先程は真心から「三帰依文」をお唱え下さいました。そして、今は仏教のお話を聞いて頂き、間もなくご一緒に御法要をお勤め頂きます。自らお寺にお参りし、手を合わせ、その口に三帰依文をお唱え頂いたのです。その行為こそが、亡き方を仏さまと受け取り、仏さまの導きで正しい今を生きていることなのです。これが、本当の供養の在り方です。
  大事なことは、皆さんそれぞれの身・口・意の三業をどこに合わせてゆくかです。自分の都合に合わせるのか、亡き方を仏さまにするように合わせるのか、亡き人が戻らない限り自分に合わせれば悲しさ辛さが増し、亡き方を仏さまにしようと合わせれば、自らも仏の道を歩むことになるのです。
  本日のお盆法要にお参りし、姿勢を正し、口に三帰依文を唱え、そのようにして調った今の心こそ、亡き仏さまへの最高最上のお供えです。どうぞ、未だ悲しみ苦しみから解放されていない方が御座いましたら、身を調え息を調えることを思い出して下さい。姿勢を調え手を合わせることを実践して下さい。心は心で解決出来ません。行いを通してしか変えられないのですから。
  最後に、皆様が安らかな日々を送られることを祈念申し上げ、私の役割を終えさせて戴きます。ご清聴有り難う御座いました。
  それでは、今一度姿勢を正し合掌して頂きます。

  「願わくはこの功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを

平成十八年七月一日 善光寺釈迦殿に於いて

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