成寿一覧表

成寿 第三十八号 
〈連載〉 『普勧坐禅儀』に学ぶ  その二

駒澤女子大学 教授 安藤 嘉則

普勧坐禅儀
〈本文 書き下し文〉
たずぬるにれ、道本どうもと圓通えんづういかで修證しゅしょう らん。 しゅうじょう 自在、何ぞ功夫を費さん。 いわんや、 全體はるかに 塵埃じんないず、たれ払拭ほっしきの手段を信ぜん。


(現代語訳)
「よくよく考えてみるに、仏道は元来すべての人にまどかに行きわたっているものであるから、どうしてあらためて修行や証(さとり)を必要としよう。仏法は誰でも自由に使いこなしているものであるから、どうしてさらにそれを得ようと工夫することがあろう。ましてや仏道の全体は塵や挨(迷いや汚れ)をはるかに超えたものであるから、どうしてこれを振り払う手段を必要としよう。」

  私たちがこの道元禅師のさまざまな著作にふれるとき、ほとんどの人が最初に言葉の雑解さ、そしてその深遠な哲理につきあたるのではないかと思います。この『普勧坐禅儀』冒頭の「原 るに大れ道本円通」の一文にしても、大抵の方はなにやら難しい言葉のハードルを感じるのではないかと思います。もともと漢文で書かれていたからという理由もありましょう。しかし辞書的な意味がわかっていても道元禅師の著作はとても難しいと思います。
  たとえば道元禅師の主著『正法眼蔵』は日本語で禅の真髄を示したもので、岩波文庫本もありますので、だれでも気軽に手に取ることができます。試しにその最初の方にある有名な「現成公案」の巻を繙いてみてください。「諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり生あり死あり、諸仏あり衆生あり。」と出てきますが、この一行目からまずお手上げだと思います。この場合、特に難解な仏教用語は使われていません。それでも「なぜ諸法(もろもろの存在)が仏法なのか」で戸惑うでしょうし、その時なぜ迷いと悟り、生と死などがあるのかで迷うはずです。この巻は最初からとても高い関門が用意されているのです。
  そこで図書館などで、この「現成公案」のさまざまな現代語訳を参照してみてください。森本和夫先生の『正法眼蔵入門』(朝日選書)はこの「現成公案」のさまざまな現代語訳を列挙し、それらの訳文を比較検討していて大変参考になる便利な本ですが、これを読みますと、この「諸法の仏法なる」の一段だけでも、師家や学者によってさまざまな解釈がなされていることに驚くはずです。この九月に日本印度学仏教学会の学術大会に参加してまいりましたが、この冒頭の解釈について曹洞宗学の第一線にある気鋭の先生が新たな解釈を発表なさっていました。
  このように道元禅師の書かれたものは、一般的に古典といわれるような書物とは違うのではないかと思わざるをえないのです。それは読んでいる自分一自身のあり方そのものを間いかけられているような思いさえいたします。まずは、きちんと出典や教理をふまえた上で理解することもとても大事なのですが、しかし机上で難解な思想的間題をこねくり回していると、かえって大切なところが見えなくなってしまいます。道元禅師はあくまで坐禅に徹した日々の中からひとつひとつの言葉を発しているというところをまず心得なければなりません。

  この『普勧坐禅儀』は日本で最初に坐禅の意義とその方法を示したもので、道元禅師の仏法を理解する上での出発点といってもよい書物なのです。そこで『普勧坐禅儀』の内容の説明に入りましよう。
  最初に出てくる「道本円通」の「道」とは仏道であり、またそれは真実そのものとしてされます。一般的には「道」という語は、ある目的までの道のりを指します。つまりあくまで目的地に至るまでの前提と考えられ、「仏道」というと、大抵は「仏に至る道」と理解されています。
  しかし「道心」といった場合、悟りを求める心であり、「道」は単なる道筋の意味ではありません。この場合「道」そのものに深い意味、究極の意味がこめられているのです。道を悟りに至るための手段、中途段階と受け止めている限り、道の本質を見失ってしまうのです。
  道元禅師は先の「現成公案」で「仏道をならうというは自己をならうなり。」とおっしゃっています。遠いかなたの仏世界に向かって歩む仏道ではなく、今ここに息づく現実の自己そのものをみつめ、解放されていく学び、自己への気づきがこの一文に示されているのです。そこから雀は雀としてチュンチュン、カラスはカラスとしてカーカー、それぞれがそれぞれの自已の働きを精一杯顕わしているあり方が見えてきます。そこには人の分別の手あかがついていないところ、あらゆる存在に真実が丸出しになった 姿(諸法実相)が展開されています。
  しかし人は天地のさまざまな恵みを受けて生きていながら普段はそれを意識することもありません。あたかも空気のように当たり前にあって、それがなくなってみてはじめて、人はその絶大な意味。大切さがわかるようなものです。

  ふだんは「見れども見えず」といった我々なのですが、まさに死にゆく人の眼に映る風景にその手がかりとなる言葉が残されています。たとえば芥川龍之介は「或旧友へ送る手記」という遺書に次のように書いています。
く唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである。僕は他人よりも見、愛し、且又理解した。それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。どうかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せずに措いてくれ給へ。>
  またガンのため三十一歳で亡くなった大阪の井村和清医師も、『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』(祥伝社)のなかで、再発がわかってショックを受けて帰宅したときの不思議な体験を次のように書いています。
〈その日の夕刻。自分のアパートの駐車場に車をとめながら、私は不思議な光景をみていました。世の中が輝いてみえるのです。スーパーに来る買い物客が輝いている。走りまわる子供たちが輝いている。犬が、垂れはじめた稲穂が雑草が、電柱が、小石までが美しく輝いてみえるのです。アパートヘ戻って見た妻もまた、手を合わせたいほど尊くみえたのでした>
  以前授業でこの芥川の「末後の眼」を学生に話したとき、しばらくして私の研究室の扉の下に一枚のルーズリーフが投げ込まれていました。名前は不明の手紙でしたが、その学生が高校時代病気になってまさに死を覚悟したとき、同じような不思議な光景を見たことがつづられていました。
〈目にうつるものすべてが、キラキラと輝いて生きる力に満ちあふれているように感じました。(中略)今は病気も良くなり、そのせいかキラキラとした世界を見ることはありませんが、絶対に忘れることのできない体験でした。〉
  我々はかけがえのない命をいただいて当たり前に生きている事実の本当の意味に気づきません。あれがない、これがないといいながら、不満に沌ちた現実に直面しています。現実を見るならぱ、過去に振り回されている人、過去にしがみついている人、過去のトラウマに苦しむ人、そんな人間模様がみえます。「昔あの人はこうだった、あんなひどいことをした」とテープレコーダのように悪口を繰り返す人に会うたびに、この方は要するに過去に生きているんだなと思います。過去のつらい思い出によって新しい心へ切り換えるスイッチを見失っているならぱ、それはとても悲しいことです。
  しかし考えてみれぱ今日の一日は今日だけなのです。昨日の私は写真やビデオで記録して残したとしても、それは私自身ではありません。昨日はあるようで、実はどこにもなく、どんなにお金をはたいても決して昨日に戻れない厳然たる事実があります。だから今日の命は今日でおしまい。毎日が誕生日であり臨終であるともいえるのです。この今をしっかり生きずにどこに生きようとするのでしょうか。「平常心是れ道」といいますが、この平常をよそにしていったいどこに道(真理)があるのでしょうか。

  さて改めて『普勧坐禅儀』の冒頭の一文に戻りますと、この「道本円通、争でか修証を仮らん」というのは、仏道の本来的な立場からいうならぱ、あらゆるものが真理として丸出しであ る限り、わざわざ修行とか証(さとり)とかを設定して歩むのではないということです。
  「宗乗自在、何ぞ工夫を費やさん。」も同じ意味内容で、宗乗(仏法)を本来自在に使っているはずの我々には本来は工夫努力することや、坐禅修行などは必要ないという意味なのです。
  さらに続く「況や全体迥かに塵挨を出ず、孰か払拭の手段を信ぜん。」という一句も、冒頭の主張を六祖慧能が示した詩に基づいて示されたものです。
  中国の五祖弘忍禅師が後継者を選ぶにあたり、門下の僧たちに各自の境涯を伝える偈(詩)を求めたところ、優秀であった神秀というものが、次のような偈を廊下に書き記しました。
   身は是れ菩提樹
   心は明鏡台の如し。
   時時に勤めて払拭して、
   塵挨を惹かしむること勿れ。
  (我が身は苫提樹のごとくであり、心は塵のない鏡台のような境地である。しかし時折心にも塵や挨がつくので払い拭うことが大切だ。心に塵や挨がつかぬよう修行しなくてはならぬ)
  しかしそのころ寺の小屋で米つきをしていた慧能が、字は読めないものの、この偈を誦するのを聞いて、字の書ける者にお願いして神秀の偈の横に自分の詩を書き付けたのです。
   菩提本樹無し、
   明鏡も亦た台に非ず、
   本来無一物
   何れの処にか塵挨を惹かん。
  (悟りは樹本に喩えるようなものではなし、心も鏡台のようなものではない。本来は一物もないのです。どこに払いぬぐうべき塵や挨があるのだろうか)
  神秀は、我が身は菩提樹で、心は澄み切った鏡のようだけれど、それでも心の鏡に塵や挨がついて曇ってしまう、だからいつもそれらを払い拭う修行をしなけれぱならないといっていました。しかし慧能は元来身も心も菩提樹や明鏡のようなものではなく、そもそも払いのけねぱならぬ塵や挨もないのだといったのです。ここに何のとらわれもない徹底した慧能の「無一物」の境涯が示されています。
  『普勧坐禅儀』では、この慧能の偈の境地を受けて「あらゆるものは逢かに塵や挨を離れていて、いったいどうして払い拭うという手段を弄する必要があろうか」と示されていたのであり、それは「道本円通」の世界を示していたのです。つまり本来は坐禅などの修行は必要なしということなのです。

  この『普勧坐禅儀』は坐禅を天下に明らかにするための本であるのに、いったい何故このような主張がなされているのでしょうか。そしてそれにもかかわらず何故我々は坐禅をしなけれぱならないか、こうしたことを次号で説明していきたいと思います。

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