成寿一覧表

成寿 第三十九号 
〈連載〉 『普勧坐禅儀』に学ぶ  その三

駒澤女子大学 教授 安藤 嘉則

普勧坐禅儀
     一
〈本文 書き下し文〉
しかれども毫釐ごうりも差あれば、天地はるかにへだたり、違順纔いじゅんわずかに起れば、紛然ふんねんとしてしんを失す。

(現代語訳)

しかしながら、分別の心が起きて本来の仏心からわずかの差を生じると、天地の開きほどに大きく本来の仏心から遠ざかります。また好きだとか嫌いだとか分け隔てる心が少しでも起こると、迷いに迷って本来の仏心を失ってしまいます。

  前号で『普勧坐禅儀』の冒頭の「道本円通、争でか修証を仮らん」以下の句を説明いたしました。すなわち仏道として示された真理は元来すべての人に円かに行きわたっているものであるから、そもそも修行とか証(さとり)だとかいう必要もないのだ、ということでした。しかしそのように言われてみても日常生活を過ごしている私たちにとって、それはなかなか難しくて理解できないのではないでしょうか。娑婆世界にいる我々とは関係のない世界のように思われるでしょう。
  道元禅師もこうした問題を真摯に受け止めて参学されています。すなわち道元禅師は十代の頃、比叡山に学び、そこで「本来本法性、天然自性身」という教えに出会います。これは我々は本来はもともと真実そのものであって、そのままで仏の身であるという意味ですが、これに対して道元禅師は「もしそうであるならば、坐禅など、仏教で実践されてきた修行そのものもいらないのではないか?」「さりとて修行しなければ迷いを重ねるばかりではないか?」そんな疑問を抱きます。この問題を抱えて比叡山から三井寺へ、続いて栄西禅師の開いた建仁寺へ、そしてとうとう中国へ渡り、天童山の如浄禅師に出逢い、曹洞宗の大法をいただいて帰国したのです。 さて今回解説する「然れども毫釐も差あれば、天地懸かに隔たり、違順纔に起れば、紛然として心を失す。」という『普勧坐禅儀』の言葉は、まず仏道の究極的なあり方を述べた上で、現実の迷える我々の有り様を示した言葉です。この「毫釐も差あれば(髪の毛一本ほどの差があるならば)」という語は、上述の「道本円通」なる理想的な境地に分別の心がほんのわずかに起こるならば、ということであり、その結果「天地懸かに隔た」ることになるというのです。髪の毛ほどの差が天地ほど隔たるということはどういうことでしょうか。これは我々の心の本質的な課題であるといっても過言ではありません。

     二
  「心こそ心迷わす心なり 心に心 心許すな」 という歌が古来歌われてきました。自分の迷える心が本来の心を迷わすのです。仏教の長い歴史の中で常に心は重要な課題としてみなされてきました。
  たとえば『般若心経』を読誦しますと、最初の方に「五蘊皆空」という言葉出てきます。この五蘊とは色(物質)・受(感受)・想(表象)・行(意志)・識(知識)というもので、仏教ではこの五つの構成要素からすべてのものを成り立っていると考えており、『般若心経』ではこれらがすべて空(実体としては無い)とするのです。
  現代の我々から見たら、これらの五つの構成要素を見て、なんて大雑把だろうかと思うかもしれません。現代人は高校の化学で習ったように、水素H・酸素O・炭素C・カルシウムCa・鉄Fe・銀Ag・金Auといったような物質の基本単位としての原子が、この世の中の構成要素と考えるのではないでしょうか。
  しかしこの五蘊説では、ただこれらの原子に相当する物質はただ色(rupa)という言葉一つにまとめられ、他の四は「こころ」の作用なのです。このように仏教の五蘊説において構成要素の大部分が心作用とすることは注目すべきことだと思います。この受(感受)・想(表象)・行(意志)・識(知識)の四つの蘊である心作用を見ると、「受」は外界の対象を受用する心の働きです。たとえば花屋さんを通りかかったとき、多くの花々がただ見えている段階で、対象を受用することです。次の「想」は明確なイメージを持った分別作用ですので、たくさんの花々の中から「これは赤いバラの花だな」という明確なイメージをもった分別の心です。そして行(意志)はそのバラの花がとりわけ気に入ったので「欲しいな」、「買おうかな」、「いくらかな?」といったように対象に向かっていく心です。最後の識はこれらの心作用を統一する意識作用です。
  このように心を重視した五蘊という枠組みは、現代の我々に理解しがたい古代の考えと思われるかもしれません。しかし考えてみますと、この世界は私たちの心によって認識された世界であるともいえるのです。別言するならばこの世界は自分の心によって切り取られた世界であり、自分が今生きているからこそ存在し、この自分が自分の世界の主人公として自己を展開させている世界だということもできるのです。
  常識的にいえば、「地球の中の日本という国の横浜市の港南区に住んでいる私」というような感覚が当たり前です。つまり私は世界を構成するごく微塵のような小さな存在であるという世界観が正しいのかもしれません。しかし地球の裏側でいろんなことが起きていても、このちっぽけな私を「主人公」とするこの世界においては、それはなんの意味ももちません。(ちなみに「主人公」とは禅の大切な言葉で、それが一般的に使われるようになりました。)
  先に花屋さんの花の事例を出しましたが、花に関心がないAさんは、花屋さんを通りかかっても「花屋さんにたくさん花があるな」というくらいでしょう。五蘊でいうなら受の段階です。しかしBさんはその中にすてきなバラの花を見つけます。それははっきりとバラを認識した段階(五蘊のうちの想)であり、さらにCさんは「どうしてもあのバラが欲しいな」とこだわる「行」の段階にあるといえましょう。Aさんの場合、赤いバラは確かに存在していてもAさんの世界には存在していませんし、Cさんのような場合、あの花はきれいだったなとバラが枯れてもいつまでも心に残るバラであることもあります。 さてこのように仏教は物よりも心に重点をもつ世界観を持っています。何年か前でしたが、京都駅に仏教系大学の看板がありました。そこには英語で「If your mind changed , whole world change」(あなたの心が変われば全世界は変わる)というメッセージが書かれてありましたが、自らの心を変えていくことでこの世界を変えていく、そういう思想が仏教にあるのです。

     三
  さて『普勧坐禅儀』の文に戻りましょう。以上述べたように我々の心の作用には迷える分別心がすぐに発動しますから、ちらりとその分別心が起こって「毫釐の差」を生じ、それが天地遙かに隔たるほどの大きな迷いを生ずることになるのです。「毫釐の差」が「天地遙かに隔たる」ことになるということを敢えて譬えを用いて説明してみましょう。
  まず親指と人差し指を合わせて、指と指の間を数ミリ空けます。そこに目を近づけて富士山を覗きますと、その数ミリの隙間に富士山がすっぽり入ってしまいます。この数ミリのわずかな隙間は、自分の心の中に生じた、わずかな分別心の窓といえましょう。私たちは自分にとって都合のいいもの、悪いもの、価値のあるもの、ないもの、きれいなもの、きたないものを相対的に分別して、その分別の心の窓から世界を見ているといってよいでしょう。そのわずかな分別心によって、ものごとに対する拒絶や受用、好き嫌いが生じ、それが天地ほどの差を生じることもありうるでしょう。
  もちろん「分別のある人」と一般的に使われているように、分別すること自体、人間の精神活動ですから否定できませんし、分別することが全面的にいけないのではありません。自分自身のものさしや価値観をもって判断し分別することは大切ですし、それは我々は日常的に行っています。ただ問題なのはその自分自身のものさしと思っているのが、実は自分のものさしではなくて、意外と「借りてきたものさし」(尺度)であったりするのです。ある場合それは学歴であったり、会社の肩書きであったり、財産であったりします。こういうものさしは目に見える尺度ですから、わかりやすいのですが、肩書きや財産で人間としての価値や幸せが決められるはずはありません。にもかかわらず現実の我々はこの借りてきたものさしに乗せて自分の幸せをはかっているのではないでしょうか。
  以前ある方と初めて面会させていただいたとき、紹介してくださった方が「彼は初対面ときに必ず自分の出身大学を直接いわないでなんらかの形でほのめかすからみていてごらん」といわれました。案の定、大学名はおしゃいませんでしたが、その一流大学出身であることを間接的に表現されました。学歴という目に見える尺度はわかりやすいですし、学歴を表明することで相手に対するメッセージとなると考えているのでしょう。
  続く「違順纔に起これば紛然として心を失す」というのも意味は同じです。「違」とは自らの心に違うという心で「嫌い」といった分別心、「順」とはその反対の「好き」といった分別の心ですが、このような自分の立場やご都合によって変化する妄分別の心によって、ものごとのありのままの姿が見えなくなることをいっていたのです。大嫌いな人の着ている洋服や持ち物、あるいはその人の考えなど、たとえそれが素晴らしいデザイナーの服や高価なアクセサリーであっても、素敵だとは思えず、それが大好きな人であれば、アバタもエクボで、何もかも素敵に見えたりするものです。我々は意識するとしないとにかかわらず、心に色眼鏡を持っていて、見る対象に対してゆがんで受け止めてしまうのではないでしょうか。
  私たちは自分のものさしでものごとを分別や判断をするとどうしても対象を曲げてとらえてしまいますし、そもそも我々が見たり聞いたりする認識そのものは自分に関心のあることしか、情報が入ってきません。
  道元禅師は『正法眼蔵』「現成公案」で「花は哀惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり」とおっしゃっていますが、同じ植物でも桜の花は惜しまれて散り、雑草はいやがられて生えてくるというのは、我々の限定的な分別心をよく表しています。 さてこうした限定的な分別心を越えて本来の仏心を輝き出させるのは至難のことであることが『普勧坐禅儀』では次のように述べられています。

〈本文 書き下し文〉
直饒たといに誇りに豊かにして、瞥地べっち智通ちつうどうを得、しんを明めて、衝天しょうてん志気しいきし、入頭にっとう辺量へんりょう逍遥しょうようすといえども、ほとんど出身の活路を虧闕きけつす。

〈現代語訳〉
たとえ仏法を会得したと誇り、悟りの経験もたっぷりで、ちらっと真実を垣間見、道を得て本来の心を明らかにし、天を衝くばかりの意気込みを示して、悟りの入り口あたりに逍遙するほどの人であっても、まだ本当の活き活きとした禅の道筋を欠いているのである。

  このようにある程度悟りの体験がある人でさえ、「道本円通いかでか修証を假らん」の世界、つまり修行や悟りも必要としない本来の仏心のあり方には行き着きません。そして我々のもつ分別の心を停止してしまうことは前述のように大変困難なことです。『普勧坐禅儀』には続いて次のように述べています。

〈本文 書き下し文〉
いわんや彼の祇園の生知しょうちたる、端坐六年の蹤跡しょうせき見つ可し。 少林の心印を伝うる、面壁九歳めんぺきくさい声名しょうみょう尚聞こゆ。 古聖こしょう既に然り。今人こんじんなんぞ弁ぜざる。

〈現代語訳〉
祇園精舎におられ、生まれながら智者であった釈尊でさえも、成道に至るまで六年も端坐して修行されたことをみるべきです。少林寺にあって正伝の仏法を伝えた達磨大師が、九年面壁修行された故事も伝えられています。古えの聖者(釈尊や達磨)もこのように修行なさったのであるから、まして今の人たちはなおさら努力しないでおられましょうか。

  この『普勧坐禅儀』の一文では、自分のものさしにはかってえり好みしたり、分け隔てする限定的な分別心にとらわれてしまう我々の心をどう修めていくかという課題に対し、釈尊・達磨大士が六年あるいは九年もの間、坐禅修行なさったことの意味を改めて喚起していたのです。そこで次号よりこの坐禅について解説していきたいと思います。

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