成寿一覧表

成寿 第38号 〈秋彼岸法話〉
まごころに生きる

曹洞宗特派布教師師・泉区束泉寺住職 関水俊道 先生

秋とも思えない残暑が続く九月二十一日、善光寺では午前・午後の二回にわたって、秋の彼岸法要が行われました。法要が行われた釈迦殿には各回約三百名の檀信徒の皆様が熱心にお詣りされていました。毎回、日々の暮らしの糧になると好評の御法話は、曹洞宗特派布教師東泉寺住職・関水俊道老師にお願いしました。


  みなさんこんにちは。
  本当にお暑うございます。「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが、最近そのことわざが通用しなくなり、暑さだけは一年中というように、暑い毎日となってきています。本日も彼岸の二日目とはいえ、この日和で暑い中でありますが、しばらくの間、仏様のお話をさせていただきます。どうぞ、お楽な気持ちでお聞き下さればありがたいと思います。

  本日は、「まごころに生きる」というテーマで、お彼岸にちなんだお話をさせていただき思います。
  お彼岸というのは、みなさんがこうしてお墓参り、そしてお寺様にお参りに出られます。仏様の方へ足を出向かせてお参りするという、こういう一週間でございます。そのちょっと前にお盆がありますが、お盆というのは逆に、迎え火を焚いて仏様に来ていただき、送り火でお送りするという行事でございます。地域によっては、迎え火を焚く時にお墓参りをして、そして仏様をお連れするという習慣の地域もあります。いろいろ風習は違いますが、一般的には、お盆の行事というのは仏様に来ていただくという行事で、お彼岸というのは、逆に、こちらから向こうの岸に行く、という行事です。
  「彼岸」というのは「彼方(かなた)の岸」。彼方の岸に、こちらから出向いて行くという意味合いがあって、お墓参りをすると同時に、その彼方の岸のところに目を向けるという、大変重要なお参りがお彼岸というものでございます。
  さてそこで、お盆の時に思うのですが、「棚行」といって精霊棚(しょうりょうだな)を設けてそこに仏様をお招きして、そこに菩提寺のお坊さんに来てもらってお参りをしてもらう風習があるわけですが、現在ではなかなか一軒一軒にお参りするということができなくなりました。私は横浜市の泉区というところで、横浜西南部の外れの下飯田という地区の寺に住んでいます。私の住む寺の周辺はまだ旧農家の方々のお家がいっぱいあります。夏の棚行のお参りにも行くのですが、だんだん留守になる家庭が増えています。昔は、その期間はいつ行ってもお家の方がいらっしゃっいました。今は、お勤めされることが多くて、「お坊さん、いつ来られますか」「和尚さん、何時に来られますか」と聞かれるのですが、なかなか正確に言えません。交通の渋滞、いろいろな都合があって、一時間もずれると「どうしましたか!?」ということになってくる。それはこの時代の流れなのですけれど・・・。招いた仏様もそのように扱われているのかな?(笑)。分からないですけれど、招いた仏様も、せっかく戻って来られたのに、今日はお買い物だから留守になっていたり、あるいは旅行やお仕事でお出掛けしちゃったり・・・。ですから、そういうことを考えると、仏に出会う・・・仏様と会話するということは、ある程度、現代の生活の所に仏様に来ていただくというよりは、その期間は、仏様の生活ともうしましょうか、仏様の心境というのでしょうか、その立場になってお参りすることが大事なのではないかと特に感じています。
  仏様は、どうして「ほとけさま」というのかというと、語源はいろいろあるのですが、日本語の「ほとけ」には「ほどける」という意味があるようです。迷いやいろいろな欲望とか、そういうものに縛られて毎日生きていますが、そういうものから、死が来ると「ほどける」んですね。解放されるということで、「ほどけ」、「ほとけさま」になったというのが日本語的な解釈です。「仏(ぶつ)」と書く仏様は、お釈迦様のお悟りの境地を「仏陀(ぶっだ)」と呼び、お釈迦様のお悟りの境地を表している「仏」でございます。
  その仏様になられたご先祖様をお迎えするわけですから、やはりお迎えする時もそれなりの対応を持ってお迎えするというのが本来のお盆のお参りの姿です。
  本日のお彼岸は、そのお悟りの境地のところにお参りに行く時の心境が大事なのです。この私たちの縛られた娑婆世界といいましょうか、いろいろな出来事がある中でそのままの気持ちでお墓参りをするとしましょう。そうすると、仏様たちも「大変だねえ」「大変だけどよく来たねえ」「まあ、ゆっくりして行きなさい」とかいうことを、仏様は言ってくれるかもしれませんね。そして、お彼岸のお参りをされた時には、その違いに気づき、安らぎの気持ちと共に仏様の境地に少し近づいて、登って行くことができるわけです。
  私たちの世界と仏の世界とは隔たりがあります。こちら(此岸)から仏の世界(彼岸)には差があります。死とともに彼岸に到達するとしても、現時点では隔たりがあります。この悩み多き人生の現在に、死を迎える前に、少し仏様の境地(彼岸)に近づいてお参りをする、これがお彼岸の大事なところです。
  仏様の心境になって出会う。仏様から降りてきてもらって、私たち迷いの世界で出会うのでは、どうも仏様に申訳ない。やはり仏様の心境になって、そして、その生き方として、お会いして、お参りする。「まごころに生きる」という生き方は、そういう仏様の心に生きることなのだと考えます。
  今、こちらの私たちの世界について考えますと、不安なところに目が行ってしまいます。政治の世界もそうですし、環境の問題もそうです。今年は日本に来る外国の観光客が、減ったんだそうですね。なぜ減ったのかと理由を聞きましたら、新潟柏崎の原子力発電所が地震のため火災になり、煙が出ている様子が、映像で世界に同時に発信されました。それを見て「日本は放射能で汚染されている」と解釈されたらしいのです。当の日本の方が鈍感です。世界は情報でつながっていますし、地震の問題にしても環境の問題にしても本当に心配なことです。明日何があるかわからない。その時に、私たちはどうしていったらいいのか。こう考えたとき、仏様の心境として毎日を暮らして行くという中に、心の安心があることに気づきます。
  とかく私達は目先のことに捕われてしまって、仏様のあの世の世界のことに、ちょっと心が行かなくなってしまいます。これが、一番もったいないことなのです。目先の利益、現実的な問題はなかなか根が深いのです。本日もこの会場は大変涼しくなっていますけど、冷房をするということも、必要以上にムダな電力を使うことによって、環境的には大変なことになっていくわけです。有効に使うということで、次の世代の生活に生かされるのですが、目先のことだけを考えると本当にもったいない現状が迫っているわけです。

  「こそあど言葉」という国語で使う言葉があります。「こ・そ・あ・ど」というのは近い順番に言っている指示語なのです。「こ」というのは、この辺、この人、こちら側、というように近くを指す言葉。次は「そ」、その辺とか、そちらの人とか、その考えとかという距離を指す言葉。その次に「あ」。あの辺とかあの人、あのこと、などの距離が「あ」。「あの世」もそうです。「こそあど」の「あ」なのです。それで、「あ」の辺のことになると、関心が薄まり、先ずは現実的な「こ」の問題、自分の目の回りのことだけに関心が集まり、優先されてしまうのです。本当はあの世(ほとけの境地)も大事なんですね。あの世も、すぐこの世になってつながっているのです。
  この「あ」の次はどこに行くかというと、「ど」なのですね。「こそあど」の「ど」。「ど」というのは、何処?とか、どの人とか、どの辺とか、見えない遠くのところが「ど」です。その辺をどうすればいいのか。見えない所も実は大事なんですね。先ほどの、ご先祖様とのお盆や彼岸での会話、これも見えない世界です。見えない方、亡くなった方をどうしているのか。これもやはり「ど」の問題です。彼岸法要なども、まさに、「見えない世界のところに心を合わせて、ご冥福をお祈りする」。そして、あの世で一緒にお世話になっている見知らぬ大勢の方もともどもお参りする。こういう意味があるのです。これは、「あ」とか「ど」の世界。見えない世界のところに心を合わせる、大事な行事なのですね。

  最近、有名な曲に「千の風になって」という唄があります。「♪千の風に〜」というあの歌です。これは、亡くなった人がお墓に眠ってないんだ、死んでないんだ・・・と、そして千の風になって私たちの周りにいるんだ・・・と。そうか、ありがたいな、うれしいな、という風にとらえる捉え方もあります。これはアメリカの同時多発テロの追悼の場で歌われたということでもありますし、世界各国でかなり評判になっている歌なのです。ああ、亡くなった人もこの辺にいるんだな、ということで勇気づけられる。そして生きる希望を持たされる歌ではあるのです。
  ところが、逆の見方もあります。私の寺の檀家さんで、実は悲しい、大変な思いをされたご夫妻がいらっしゃいます。愛娘さんが、大変飛行機が好きで、航空会社に勤められていて、空のことが大好きなので、空からパラシュートで降りるスカイダイビングという企画に参加されました。それが、本当に不幸なことに、事故でパラシュートが開かなくて、インストラクターの方と共々、落下してしまいました。そのご葬儀に私も立ち会いました。その後何年か経って、先日お会いした時に「和尚さん、私たち夫婦は、今流行っている『千の風になって』という歌はとても聞けません。それが掛かるとすぐ消します。お墓に眠ってません、千の風になっている・・・。じゃあどこにいるんだ、出てきて欲しい。お墓にいないんだったら出てきて欲しい、そういう叶わぬ夢をこの歌を歌っても現実とは違う。現実は戻ってこないんだ」と。あんな歌、悲しくて聞けない、そういう思いがあるのも理解できます。
  本当に現実に直面する、直視するということも「生きる」上では大切なことです。本当に直面し、本当のことを考えた場合には、やはり虚実というか、言葉遊びみたいな感じになってしいます。そう考えますと「千の風になって」という捉え方は、やはりご夫妻にとっては、悲しい歌です。
  実は「千の風になる」ということは、仏教の教えにもあるのです。お釈迦様が亡くなられて荼毘に付された時に、その荼毘の煙を見て、お弟子さんたちは「お釈迦様は、今、あの煙に乗って天に昇ったんだな。そして風になったんだな」という風にお思いになった。そこで、自然に帰ったんだ、ということで「私たちはお釈迦様に代わって、その命を心の命として伝承していこう」と思った訳です。風になっていくということは、それはまさに、先ほどの歌と同じような意味合いなのですが、それは心の魂としてのあり方、そういう意味として捉えるべきなのです。しかし、それがなかなか現実的には本当の命として捉えることができない、というところも真実でございます

  私たちにとって大事なことは、「本当の姿を捉える」、「大事なこと、大切なこととは何なのか」を捉えた時に、その心を「(ほとけの)まごころ」という風に理解することができるのです。  お釈迦様がこの教えに気付かれたのが三十五歳の時。お悟りしたといわれています。お釈迦様は王様の家に生まれまして、そして不自由がない生活だったのですが、「自分が納得する」この世というのは何なのか。そして、病気になったり老化現象が来たり、死が来たりする。それから逃れることは出来ないのか。みんなが仲良く豊かな生活、暮らしをすること、安心する毎日を暮らすというのはどういうことなのかなと思った時に、もうお城の中でゆっくりしていることはできなかったのでございます。自分として納得することは、外に出て、そして仏様の悟りの境地に至ること。そういうことに目覚めまして、苦行をされたのです。でも本当の安心とは何なのかな、ということはなかなか分かりませんでした。その時に、苦行をしていた村のスジャータさんという娘さんからいただいた、牛乳の入ったお粥を食べて、それで元気が出て悟りを開いたといわれています。
  その時、当時のインドの社会ではお坊さんの修行としては動物性のタンパク質を摂るということは、それはルール違反といわれていたのです。でも、お釈迦様はルールとは何なのか、大切なことは何なのか、というように考えて、気がついた時にその施しをありがたく頂いていました。その施しをいただいた上に、自分は何をするべきかという大切なことがあるんだということに気付いて、悟りを開いたと言われています。
  でも、さらに尊いことは、悟りを開いてから、その教えを大勢の人に伝えなければいけない、それが自分の役目だという風に思われて、それで八十歳で亡くなられるまで、いろいろなところで教えを説かれました。お釈迦様も生身の人間ですから、お腹もすくでしょう。それから全国を歩くと足も痛いでしょう。夜も眠くなるでしょう。それは私たちと同じです。悲しみもあるでしょう。そういう悲しみやつらさ、苦しさを乗り越えて、自分のお家を持たないで各所を歩きながら説法に歩かれました。これはやはり、お釈迦様なりに放っておけない心があったのだと思うのです。それが「まごころ」。
  まごころという字を漢字で書くと、「真の心」ですね。「真心」。この真の心、真心について辞典を引きますと何と書いてあるかといいますと「飾り気のない、そして嘘のない心」。飾り気がなくて、嘘がない、そのまま。私のまま。でも、そのままでいいのでしょうか・・・?嘘がなくて飾り気がなくて・・・、たとえば、自分の目先の欲望だけに動いている人は嘘がない、そして飾り気がない、そのままでお金儲けをしてしまう。目先の利益にとらわれた飾り気がなくて嘘のない心、これも真心と言えるのでしょうか。辞書の言葉をそのまま使えばそうなってしまいます。
  でも、本当の真心というのは、それは、私たちの中にある仏心(ほとけごころ)、私だけの目先の利益だけではなくて、みんなが仲良くできて、そして安心できる仏様の心に立った時の真心。そのことに忠実に生きることが真心に生きることなのです。ですから、先ほどのお嬢様を亡くされたご両親にしてみれば、その真心とは、まず現実に直面する、直視する、やはりそれしかないんだということを、そのご両親は言ってらっしゃいました。
  現実を直視する。そうすると、そこで大事なことが見えて来ます。まさにお釈迦様が気付かれた教えもそうです。本当のことって何なのか。そうだとすれば、これは放っとけない、自分はこうする、しなければいけない、ということを感じたわけでございます。
  その真実を「正しく見る」ことを「正見(しょうけん)」とお釈迦様は呼んでおられます。八っつの正しい行い(八正道)の第一にあげられています。物事を正しく見ることは難しいことですが、そのことに気づく大きな要素が三つあることをお釈迦さまは教えてくれています。これは全世界に共通の真理なのですが、この真理を手がかりに、正しく物事を見ることによって「仏のまごころ」に生きることができるのです。
  その一つは何かというと、「この世の中は常に変化している」。一定の物が、時間が変化して、留まることがないということ。これは全世界共通のものでございます。時間は戻りませんから、どんどん変化します。その瞬間というのはとらえどころがありません。そして、この変化の流れに、誰も逆らうことはできません。これが一番目の手がかりです。これを見つめるということ、見極めるということ。亡くなった人たちは帰らない。そして老化現象は、今、一時一時起こっている。私たち人間は百パーセント死亡率を持っている。それはいつ来るかは分からない問題なだけ。そういったことが、時が動いて行くということです。逆に言うと、良くなることもそうです。ずーっとじっとしていないのです。病気が良くなったり、それから新しい赤ちゃんの命が生まれる。これもその、変化の中です。これを仏教の言葉では「無常」と呼んでいます。無常、常が無い。これに気づくこと。ああ、そうなんだな、無常なんだな。世の中は止まることなく動いているんだなと観じることが、第一の正見です。
  でも、このことを言いますと、「わかります和尚さん。この無常っていうのは、本当に、一時って誰も止められません。大切な時間で大事だっていうことがわかります」と言いながら、それが分かっていない行動が多い訳ですね。だからいろいろな事件や犯罪が世の中で絶え間なく起きているのです。「本当にこの無常ということが分かっていればどうなるか」ということを、永平寺を開かれました道元禅師様はこのように教えてくれています。
  「誠にそれ無常を感ずる時、吾我(ごが)の心起こらず、名利(みょうり)の念生ぜず、時光(じこう)の甚だ速やかなることを恐怖(くふ)す。ゆえに行道(ぎょうどう)は、頭燃(ずねん)を救う」
  こういう言葉が『学道用心集』という書物の中に書かれております。易しく言いますと「無常を感ずる」ということ、本当に無常を分かるという時には、吾我という、俺だとか我だとかいう自己中心的な「吾我」の心は起こらないはずであり、また、「名利」という名声とか利益に心は動かないはずだというのです。これが起きるということは、本当に無常を感じていないということです。本当にこの一時が]虚しいものだな、と感じた時には、俺がとか自分がとかはどうでもいいと、みんな同じなんだ、その無常をみんな同じように生きているのだから、今さら私が何を・・・と。そう考えれば、名前とか利益とかそういうことよりも大事なことがあるということに気付くということ。それが道元禅師のするどい指摘であります。時光というのは「時間と光」で、時の流れの速いことに「恐怖(くふ)」すると続いています。恐怖とは、驚いて恐れおののくこと。「ゆえに行道は頭燃を救う」というのは、・・・だからこそ行道(ほとけさまとしての行いの道)というのは、頭の毛が今燃えているという火の粉を払うことなのだということです。「えっ、頭の毛、燃えてません」と思うでしょうけど、「今、時がどんどん過ぎているということは、頭の毛1本1本が燃えてることだよ」ということなのです。つまり、本当に無常を感ずれば、自己中心的な目先のことにとらわれないで、大事なことって、もっとあるんだなーということに気付くというのです。これが一番目。いかがでしょうか。
  そして二番目の正見。真理を知ることの手がかりの次は、「自分の物って何にもない」と気がつくことです。自分の物って何にも無いんです。自分のものって何か「これ自分の物だと思う」ってありますか。自分の物って何にもないんです。お金も自分のものではないのです。契約で、たまたま使わせてもらっているもの。自分の命だってそうです。お家もそうですし、この地球自体も。実体がない。これを仏教の言葉で何ていうかというと「無我」といいます。我が無い。「我」というのは実体という意味なんです。実体がない。『般若心経』では「空」と呼んでいます。実は『般若心経』というのはお彼岸のお経でございます。彼方なる向こうの岸の、悟りの境地に至るための智慧、これを般若と呼んでいます。そこに書いてある教えは、この世の出来事というのは、全部「空」であって、実体がなくとらえどころがない。たまたま今、ここにある私と皆様との出会いというのも、縁と縁というつながりで結ばれて、そこにあるので、このつながりが切れればなくなる。ですから実体としては何にもないんだと。決まったことは何にもないんだという、これが二番目の「無我」という視点です。そうすると、どういう風に考えることができるかというと、「あの人は良い人なんだ、悪い人なんだ」というのは、実体として最初からオギャアと良い人、悪い人の区別があって生まれてこないということです。ですからそれを「無我」といいます。たとえ、財政破綻をして自己破産をしなければいけないとか、いろいろなことがあると絶望して、もうダメだ、もう私は生きて行けないと思いがちですが、その「生きて行けない」というのは、もともと「生きる」という実体も無いのですから、最初からもともと無いのです。だから、また条件が変化することによってどうにでもなっていく。無限の可能性を持っているのが、「空」であり「無我」です。ですから、「幸運をおごらず、絶望も嘆かず」、宝くじが当たったり良いことが連続して起こる時にも、奢りの心を持たないで、また逆にどんな逆境の時にもめげない心。これが無我が教えてくれる、正しい見解、「正見」の二番目の指針です。
  三番目の教えは何かと言うと、「皆苦」です。みんな苦しい?いや、苦しくないよ、楽しいこともいっぱいあるよ、と言いたいですよね。でも、この「苦」というのは自由にならないということです。すべてが自分のものではないのですから自由になりません。命もそうですし、人の心も自由に動かすことができません。自分の思い通りにならない。だからこそ、これを「苦」と名付けているのです。この視点に立てば、もともと苦から始まり苦に終わる人生、「楽しむ」ということは何なのか、見えてくるのではないでしょうか。
  以上の三つの視点で、正しく世の中というもの、この現実の真理の姿を理解することが仏様の心、「真心」(まごころ)であります。その心に登って、そして仏様にお会いする。

  このお彼岸という週間は、このような正しい見方、本当の真実というものを見つめて仏と出会う場であります。吾我の心が起こらない、みんなの幸せを感じること。お釈迦様はその悟りに気付いたときに、みんなにこのことを教えなければダメなんだと感じ、八十歳で亡くなられるまで、この施しの行を続けられました。これがお釈迦様のまごころであります。
  お彼岸とはまさにそのような心でお参りしていただきまして、仏様と出会っていただく機会なのです。
仏様という言葉には三つの仏様がふくまれています。一つは亡くなったご先祖様のこと。二つ目は、その教えを伝えていただいたお釈迦様など先輩の仏様。そして、三つ目の仏様は、正しい仏の智慧を持つことによって、お釈迦様や亡くなったご先祖様と共に、同じ仏の境地として出会う可能性を秘めた、私たち一人ひとりに内在している仏様であります。そして、その帰する所は一つです。「仏心」。わたしの心も亡くなった人も、それからお釈迦様の心も、一つに帰って行くわけです。先ほどのお釈迦様のまごころを考えますと、ほんとうにありがたいことだな、と思います。是非、そのような安らかなお心でお参り頂きますようご祈念いたします。
以上、駆け足で「まごころに生きる」ついてのお話をさせていただきました。
ご清聴ありがとうございました。

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