成寿一覧表

成寿 第四十号 
〈連載〉 『普勧坐禅儀』に学ぶ  その四

駒澤女子大学 教授 安藤 嘉則

〈本文 書き下し文〉
所以ゆえすべからくこと を尋ね語をうの解行げぎょうを休すべし。

(現代語訳)
だから〔坐禅するときには〕言葉の意味を理解しようとすることはやめなさい。

 この『普勧坐禅儀』は最初に「道本円通」(つまり真実の道は本来あまねくゆき亘っている)ということから文章を始められていました。
 このことについて思い出されるのは道元禅師の次のような歌です。
   峯の色 渓の響きも みなながら 我が釈迦牟尼の 声と姿と
   (山々の姿も、谷川をせせらぎの音も、すべてみな 私がお慕いしている 釈迦牟尼仏の声であり、姿なのです。)
 また、『正法眼蔵』には「山水経」という巻があり、その冒頭に「而今の山水は、古仏の道現成なり。」つまり今目の前に見える山や水も諸仏の真実の道が現れ出たものであると説かれています。
 二十数年も前のことでしたが、荒井由美さんがディスクジョッキーをつとめていた深夜のラジオ番組を聴いていると、荒井さんが自分の歌について語っていました。それはあるとき北鎌倉のお寺に行ったときのこと。あるお坊さんから、あなたの「やさしさに包まれたなら」という曲は『般若心経』の心をよく説いているといわれたというのです。実は学生時代この曲を聴いて私もまったく同じような感想を持っていたので、思わず同じことを思う人がいるんだなと思ったことをはっきりと覚えています。それは次のような歌詞でした。その一部を挙げてみましょう。
   心の奥に しまい忘れた 大切な箱 開くときは今
   雨上がりの庭で くちなしの香りの  やさしさに包まれたなら 
   きっと  目に写る全てのことは メッセージ
 歌詞の冒頭に「小さい頃には神様がいて」とあるので仏教とは関係ないといわれる向きもあるでしょうか、本来もっているものを解き放ち、すべてのものから発するメッセージを受け止める心のアンテナをもったとき、改めて見えてくるもの、聞こえてくるものがあるはずです。
 『般若心経』ではすべてのものが空(実体がない)を説きます。だから昨日の自分はどこにもありませんし、明日の自分はきっとあるのだろうけれど今はありません。過去の自分と今の自分どちらが本当の自分なんだろうか、実は三十の頃のあのときの自分が本当の自分なのだといってみても仕方ありません。今の命をいただいた今の私があるだけ。そしてそれを精一杯生きるしかないのです。空だからこそ、今生きている自分の命のかけがえのなさ、そして、あらゆるものにある存在の輝きが見えてくるのではないでしょうか。そうしたまなざしで見ると、すべてのものから発せられるメッセージを受け止めるアンテナが立つのではないでしょうか。ですから『普勧坐禅儀』の冒頭の「道本円通」の句は、先ほどの「峯の色」の歌や山水経でいう「あらゆるものが真実を説いているのだ」と通じるところがあると思うのです。
 しかしながら実際には私たちにはなにかにつけ分別心が働いてしまうため、真実を受け止めるアンテナが立ちません。明鏡止水のような心であれば、ものごとをありのままに映し出しますが、実際には自分の分別の眼で、すなわち色眼鏡で見てしまい、見れども見えずということなのです。それが私たちの現実の姿であるといえましょう。だからこそ、あの釈尊も達磨大師をはじめ実に多くの祖師たちが修行に励んできたのです。まして我々はいっそう努力して心の扉を解放していかなくてはならないのです。以上のように、我々がなぜ坐禅修行をしなければならないのかということが示されていたのです。
 さて、こうした文脈をふまえつつ、この段からは実際に坐禅にする場合の心の有り様について述べてられています。冒頭に掲げた「言を尋ね語を逐うの解行を休すべし」というのは、坐禅ではあれこれ言葉の意味を詮索したり、言葉の意味を通じて認識し理解することをひとまずやめてしまいなさいということです。我々はふだん当たり前のように言葉に用いて人とのコミュニケーションをはかり、またものごとを理解しています。もし言葉がなかったら、どうでしょうか。もちろん社会生活は成り立ちません。
 たとえば野山の草木をみるとき、けなげに咲いている花の名前を知っている人と知らない人とではどうちがうでしょうか。知らない人にとっては単なる雑草にしか見えないかもしれませんが、その草花の区別を知っている人には。言葉を知っていることは、ただ言語的な問題ではなく、その人の心豊かな生活を開く道具であるともいえるでしょう。そうしたところから人々は歌や詩、そして文学を生み出してきたのです。
 その言葉はあるときには人を傷つけ苦しめますし、あるときは同じ言葉が人を励まします。たとえば「彼は能力がない。ダメだ。」という上司の言葉が、人を絶望につき落とす場合もありますし、あの上司の苦言が私をいい方に成長させたということもあるでしょう。すなわち同じ否定的評価に発憤する人もあれば、心の軸が折れたようになる人もいます。しかしながら、そもそもその言葉自身もはたして正確なのでしょうか?ある人が大嫌いな部下をその色眼鏡で評価するとき、なにをやっても悪く評価し、気に入った仲間であれば、同じ失敗をしても気にもとめないということはよくあることです。つまり言葉は発する人にとっても受け止める人にとってもけっして絶対的ではなく、あくまで相対的なものなのです。
 禅宗のスローガンというかメッセージとして「不立文字、教外別伝」とか「以心伝心」という言葉があります。このうち不立文字は「ふりゅうもんじ」といっていますが、そのまま読むと「文字を立てない」というように理解されますが、これは文字そのものを否定しているのではありません。また「教外別伝」とは教とはここでは経典や教理を意味しますが、真実は経典や教理そのものではなく、経典の外に伝わるものであるということです。
 これについて禅門では有名な「指月の譬え」としてよく説明されます。つまり経典は月という真実を指し示す指に譬え、指そのものが真実ではないということをいっています。しかし私たちにとってお経はやはりありがたいものであって真実そのものではないかと思う人も多いと思います。
 確かに仏教にはさまざまなお経や教えがあり、それらは大切な仏の教え、真実を説いてやみませんが、もし経典そのものが真実であるとすると、ややもするとこのお経だけが真実であり、それ以外の経典や教えは違うのだという考えになり、お経のちがいで争うこともあるわけです。実際に中国や日本において仏教を受用する過程の中でそのようなことがありました。しかしこちらで月を指している指だけが正しくて、向こう側から指している指はまちがっているということではないはずです。あくまで天に輝く月は一つであり、大切なことは指の方を見てその優劣を争うのではなく、指された月を見つめること、真実そのものを受け止めていくことが大切なのです。

〈本文 書き下し文〉
須らく回光返照えこうへんしょうの退歩を学すべし。 身心しんじん 自然じねん に脱落して、本来の面目現前せん。

(現代語訳)
自分を振り返って自身を見つめ内省することをしなさい。そうすると身も心に対する捉われが自ずから抜け落ちて、本来の自己の姿が現れてくるのです。

 「回光返照」というのは、光輝く太陽が西に沈んでも空が反射して明るく光ることが元々の意味ですが、ここでは外に向かってみる心の働きを自己の内側に転じて内省することを意味しています。また「退歩」とは進歩に対する退歩ではなく、根本に戻ること、本来のところに立ち返ることを意味します。要するに「回光返照の退歩」というのは自己をみつめなおすことです。坐禅とは言葉を通じて仏教を概念として理解するのではなく、向きあうべきは自分の心と身体なのです。それは自己との対話であり、自らの心身との真剣勝負であるといえましょう。
 そうすると体や心に対するとらわれも自然と抜け落ちてしまい、そこに本当の自己、真実の姿を見出していくのです。ここで「身心自然に脱落し」というのは、いわゆる道元禅師の教えでよく知られている「身心脱落」のことです。この身心脱落ということについて、道元禅師は師の如浄禅師から次のような教えを受けたことが『宝慶記』に記されています。
   参禅は身心脱落なり。祇管(しかん)に打坐(たざ)して始めて得べし。焼香・礼拝・念仏・修懺(しゅさん)・看経(かんきん)をもちいず。
   (参禅は身心脱落であって、ただひたすらに坐禅して始めて得るべきである。焼香・礼拝・念仏・修懺・看経など、他の行いによらないのである。)
 そしてある早朝の坐禅のとき、如浄禅師は居眠りをしている僧に打ち、「参禅は須らく身心脱落なるべし、只管に打睡して什麼を為すに堪えんや」 (参禅は身心脱落でなければならぬ。それを、ただ居眠りをしておって何事か!)と叱咤したのです。その声が響くなり道元禅師ははっとします。そして坐禅を終えると如浄を訪れ、うやうやしく焼香礼拝しました。如浄禅師は「どうしたのか(作麼生)」と問うと、道元禅師は「身心脱落しました」と答えます。すると如浄禅師は「身心脱落・脱落身心」と答え、その道元禅師の身心脱落を認めたといわれます。これは道元禅師にとって大きな体験でありました。
 こうした道元禅師の身心脱落の話を読むと、まさに悟りの体験が述べられているといえるのですが、これは一時的な神秘的な心理状態ではありません。坐に徹する中で心身のとらわれから解放されたあり方といえるのですが、実はこの身心脱落については宗学という学問の分野ではそのとらえ方にいろいろが議論が展開されていますが、今はそうしたとこには立ち入ることはいたしません。
 大切なことはまず坐ってみるということです。坐禅をするには僧堂のようなところを一心に研鑽するのが最もよいでしょうが、わたしたちは必ずしもそういう場所に恵まれているわけではありません。しかしそのような気持ちに目ざめるならば、意外と身近に機会はあるものです。善光寺をはじめとするお寺の坐禅会に参加なさるのもよいでしょう。また一日の内のわずかな時間でもいいですから、自宅で背筋をきちんと延ばして呼吸と整え、どっしりと坐ってみてはいかがでしょうか。そのためのやり方を次回以降に紹介いたします。

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