成寿一覧表

成寿 第40号 ■読物 <死者と生者> - 施食会にちなんで -
< 死者と生者 > - 施食会にちなんで -
平成21年6月26日
駒澤大学名誉教授 佐々木 宏幹 先生


善光寺行事報告⇒

一、はじめにー「あの世」の発見

 あの世があるのか、それともないのかは、今のところ科学の立場からは結論が出せない。ないかもしれないけれども、確実にあるかも分からない。これが科学評論家の、今の日本を代表するといわれている人の結論です。ところが宗教という文化、キリスト教、イスラム教、大乗仏教では、あの世はあるという、そういう建前に立ちます。
 あの世がある。見えるこの世に対して見えない世界がある。さらに仏教では、見えないあの世が見えるこの世を支えてくれていると説く。これを「ご縁」と申します。難しく言うと、仏教では「縁起」というのですが、「ご縁がある」の「縁」に「起こる」と書きます。その縁起というのは、ご縁によって自分が起こる、生じるとか、今あるとか、だんだん成長していくという事実を意味します。
 この縁起はお釈迦さまが悟った内容なのです。どういうことか。お経に「此れあれば彼あり。此れあるによって彼生ず。此れなきによって彼なし。彼滅するによって此れ滅す」というのがあります。今、二つ「此れ」と「彼」に分けました。それがあの世とこの世とか、見える世界と見えない世界、こうなります。
 霊長類の猿は、いくら教えてもあの世は発見できない。アメリカの学者が一生懸命教え込んで、亡き子供、あるいは自分の妻だった亡きメスの猿にオスがどのように対応するか、付いていながら教えたけれど、ついにダメ。
 そこで結論は、猿類が人間になった最初の存在である旧人類、あのネアンデルタールは七万年前か十万年前にすでにお弔いをやっておったということです。今ゴタゴタ戦争しておりますイラクのシャニダールというところの洞窟から発見されたのです。一九五〇年代ですから、あまりまだ経っていない。これが考古学における二十世紀最大の発見だったとされます。
 なぜそんなに騒いだかというと、宗教の起源、起こりは何かということが明らかになったからです。生あれば死ぬ。仏教ではどうせ死ぬのだから生あるうちに真面目に一歩でも二歩でも、お釈迦さまに近づくような努力をしましょうということになる。皆さんも仏教徒で仏教に縁をいただいております。仏教では「成る」ということはお釈迦さまに近づいていくことです。お釈迦さまは一生懸命修行して「成仏」された。この「成仏」とは何かというと「成道」したこと。「成道会」をこのお寺でもすると思いますが、キリスト教やイスラム教にはこういう観念はないんですよ。それで仏教は「成る」宗教なのです。
 今日のお話の肝心なところは、皆さんの中には、愛する人を失って心中悲しんでいらっしゃる人がおられるはずですが、それは家族の中とか、親しい人と私の間に、ある日人の死という大きな穴が開いちゃった。その穴をどうして埋めるかということで、社会によってつくり出されてきたのが葬式とか弔いであるということです。
 弔いというのは何であろうか。「葬」という字を見てみますと、「死」の上下に草と草が二つある。今は化学繊維のふかふかしたものがありますが、私が小さいころは藁布団というのを田舎では使っておりました。藁を叩いて柔らかくしたものを敷布団の中に入れてふっくらさせたものです。それを死者の体の下に敷いて、上から掛け布団をかけてやる。ねんごろに死者を葬る、これが「葬る」の意味です。この世で亡くなって死者になっても、なお死者は生きている、死者は死者として生きているというイメージがなければこういうことをするわけがない。それが人類と他の動物、何千種といる動物との違いであります。
 よく「あいつは人間でないよ」とか「人間性がない」という言い方がなされますが、その基本には、死者というものを「死んだらチャラだ」などと言って、死者をモノとして扱うという気持をもつ人、こういう人が今の日本にはなきにしもあらずですが、これは大変なことだと私は考えております。そういう思いが強くなればなるほど、「お母さん、人を殺してなぜ悪いの」とか「誰でもよかった」「むしゃくしゃしたから殺した」、秋葉原事件がまさにそうでしたが、そういう人がなぜ増えるんだろうか。これはご先祖を、あるいは死者を慰める、死者にあの世で安心していただくという文化が弱くなったからではないか。死者にはお釈迦さまの下に早く近づいてほしいという願い、そしてその願いに応じて死者は「成仏」するのです。本当は皆さんは生きている間にお寺のお弟子さんになって成仏を図るべきですが、一般の人は仕事を持っておって、なかなか生前にお寺との密な縁を持つということは難しい。だから亡くなった後にお釈迦さまのような大平安、あるいは大寂定と申しますが、最も心が和やいだ静かな状態、つまりお釈迦さまのような人に成ってほしいと願って行うのが「葬」であり「供養」なのです。
 そういうことで葬ということが始まったのですが、私のやっている文化論から見ると、よく人間は文化文明を持っているといいますが、文化を持ったということは人類が「あの世」を発見したということです。あの世を発見するためには、よほどの知恵が必要なのです。

二、「死者」のイメージ

 大切なのは、現代の日本人は死者をどのようにイメージしているかという問題なのです。皆さんは亡き人をめぐって今日も善光寺さんに集まりました。心の中で「あの人」というのをどうイメージしていますか? いろいろだろうと思います。私はそれを三つくらいに分けてみました。
 一番目は霊とか魂だとか言われているものでして、肉体に宿るモノ。私が今マイクを持って皆さんの前でおしゃべりしているのは、私の中に「心」とも「霊」とも「命」とも「精神」とも、いろいろな漢字を当てますが、そうした存在が私の中にある。そういうものを「生命原理」と呼びます。命の一番元にあるもの、それが「霊」と言われているものです。
 この霊の問題を詳しくやるとまた一時間くらい経ってしまいますから、今日はハショリますが、霊のもともとの意味は肉体に宿っていて、肉体を離れても存在すると考えられている精神的な実体だとされます。これが原初的霊魂観というものです。ところがここが問題。実体というのは大体動かなくて、成長が止まった固体をいうのです。実体はというと、動かないものという意味でありますが、これは仏教から見ると違うのです。仏教はこの世に動かないものはない。あらゆるものはは絶えず動いているのだというところから始まるのです。「無常」という言葉をご存知でしょう。「常が無い」ということは、こうやってる間も私はどんどん歳を取り、皆さんもまだ若いとおしゃれをしておっても、この瞬間にも歳を取っているのです。これがさっき言ったお釈迦さまの発見した「縁起」ということです。生まれたものは必ず老いる。これをごまかすな。よく見よ。やがて老衰して病になって死んでいくものなんだと。そして死んだ後はあの世でまた死者として生まれなおす。そうすると生まれなおしたときに名前が必要なものだから、お坊さんから法名とか戒名とかをもらっているでしょう。あれはあの世に生まれなおしたときの名前なのです。
 この世の「○○○○」はこの世で終わりだけれど、あの世に行く際にまた名前をいただく。こういうことなんです。ところであの世に行った人は力を持つようになる。なぜか。それはお釈迦さまから絶えずエネルギーをいただいて歩んでいるからです。目に見えない不思議な力を、かりに「霊」と呼ぶのです。
 二番目は私の見方です。目には見えないけれども自己の思い、心の中に生き続ける人格、これが「死者」です。目には見えない。皆さんもお身内を亡くされてまだ一周忌の人もおられるでしょうから、そういう方はお墓におられるかもしれない。まだ遺骨を保っておられる方もあるかもしれないけど、それは遺骨であっていきなりニコニコしながら話しかけてくれる存在はそこにはいない。でも心の中に生き続ける人格、心の中に生き続ける見えない存在を、遺骨だとか写真だとか灰やお墓など、見える形の象徴を通して実感する。
 シンボルとして、見えないものを見せるしかけが象徴です。だからお釈迦さまの像を見たらお悟りを象徴しているから立派な相をしておられるのです。見えないものを見えるようにするために、たとえば「日本」というものを目に見えるようにするために日の丸の旗を見たら、皆さん感涙に咽ぶこともあるでしょう。「勝った勝った、サッカーが」と、あれです。あれが象徴。日本国の象徴。だから目には見えないけれどもそういう象徴物を通して生きているものと感応道交する。奥深い感情の中で、通じ合いがある。こちら側が感じれば、必ず向こう側が応じてくれる。そして交わる。これは七、八年前に出した私の『仏力』という本があって、その中に死者をどうイメージするかということで書いたことがあります。
 三番目はどういうことか。現代の日本人にとって、霊や魂は固定的実体ではない。さっきは霊や魂は精神的実体だと言いましたが、実体は変わらないのだけれども、死者は変わる、実体ではない。どういうことか。生きている皆様からの供養によって、モノでも心でもお供えして、相手を和めることを供養といいます。「供える・養う」と書きますね。これは大事です。死者の供養、モノでも心でもそこにお供えして、相手を養ってあげる、慰めてあげる。そうすると向こうもこうしてはいられないというので、残った悲しみを癒してくださる。これが感応道交です。そこで生者からの、生きている親族からの供養によって死者は身を変じ、やがて仏身になる、変化する、そういうものであると解説することも可能でしょう。
 今三つ挙げましたが、皆さんのご親族、あるいはかけがえのない人があの世に行った際、この一、二、三のどれに当たるとお思いでしょうか。今答を出す必要はありません。後でお家でゆっくり考えてみてください。たぶんこの三つは重なっていると思います。どれか一つに丸を付けろといっても付けられない。これはなぜか。変化しているからです。どういう風に変化しているのかというと、あの人はこの世では迷惑ばっかりかけたけれども、仏様の道に入ったから、あの人は仏様への道をひたすらに歩んでいるのだから高まっていく。その仏様の道のことを「涅槃の径」というんです。
 涅槃というのはお釈迦さまがお悟りになってたどり着いた境地のことです。もともとの意味は、大きく燃えている火がふっと消えたという状態。煩悩とかいろいろなもので、われわれはこの世にへばりついておりますね。地位だ名誉だ命だとへばりついているのだが、それを超えてしまった境地をニルヴァーナと言うんです。インドの言葉です。それを「涅槃」と訳した。ところがお葬式のときお坊さんの言うことを聞いていると「涅槃の径(けい)」に入らしむ」と、必ず詠みます。「涅槃の径」とはお釈迦さまの境地にたどっていく道、「径」は「道」のことをいいます。そうするとお坊さんのお葬式とは「涅槃の径」に引導、引き導くこと、こういうことなんです。そこへ行った人はどうなるのかというと、「死者が仏様になる」ということです。

三、「成る」の宗教と「創る」の宗教

 仏教は「成る宗教」。こう覚えていてください。
 今日のお土産は「仏教は『成る宗教』」、これです。どうしてかというと、たとえばキリスト教やイスラム教は「創る宗教」です。「工作する」の「作る」ではなく、「創造」の「創る」です。「創る」というのは、材料が無い状態から、無から有を創るということで、大変な奇跡なんです。そういう宗教と、こちらではすでに人間が生きておった中に、お釈迦さまという仏教を始めた人が、小さな王国の王子様に生まれて、それでこんなに皆が苦しんでいる状態をどうやって解決するかというので、王様の地位を捨てて、奥さんも捨てて、子供も捨てて六年間修行して、「成った」のです。仏教とはそういう「成る」の宗教なのです。
 ところがキリスト教やイスラム教は「創る」だから、「神はじめに天地を創りたまえり」と、聖書を読んだら最初に、神が最初に天地を創って人間を創ったと書いてあります。「成る」ではなく「創る」です。そこを今日、ちょっと覚えておいてください。
 そして次に、仏教のお葬式は、死者を成仏の道に導き入れ、その後の手当てをする儀式である「追善供養」を行い、その歩みを助けるわけです。どうするのかというと、「成仏」というのは「仏に成る」ということでしょう。そうするとそこに「発心」、自分も仏様のところに行きたいなあという心が発するわけです。キリスト教なら信仰を持つということですがね。発心をすると修行が始まるんです。朝のお勤めで仏壇を拝むのもそうだし、曹洞宗ならば坐禅を組むのが大事な修行ですね。そうすると「菩提」というところへ行く。菩提とは「真理」ということですが、「お悟り」です。皆さんは「だれだれの菩提のために」と言うでしょうが、あの「菩提」はお釈迦さまのお悟りを意味します。それで「涅槃」というのが、その菩提のさらに奥にある、お釈迦さまの本当にお悟りになった、成仏の姿そのものを言うのです。そうすると亡き人も仏の国において、お坊さんによって発心させられ、修行して、菩提、涅槃となっていくということです。
 これをもう少し説明すると、万物の生成は世界に内在するカによって可能になるということなんです。お魚はプランクトンを食べて、やがて大きくなると人間に食べられる。野菜も最初は小さい種ですが、秋になると大きく実り、人間に食べられる。われわれはそういう食べることによって生かされている。それがさっき言いました、世界に潜んでいるカ、「内在する力」ということなのです。これは少し難しく言うと、宇宙や世界を現にこのような姿にあらしめているような生態系、われわれは人間だけで地球に生きているのではありませんよ、ということ。動物から空気から水から、さまざまなものによって、私どもは「生きている」のではなく「生かされている」、生かしてもらっているのだという、こういう考え方ですね。そういう生態系、これがはたらきとして、われわれの命を育んでおります。それで発心、修行、菩提、涅槃と四つ書きましたが、それを植物にたとえますと、発芽、成長、増殖、枯死ということになり、見事に重なるのです。つまり植物の成熟と成仏は重なるのです。成熟も「成る」。成仏も「成る」なんです。

四、「帰元」と「帰天」

 それから最後に大事な点、「帰天と帰元」という話、これもぜひ、今日は善光寺さんのご法要に参加したのですから、そういうものなのかとご理解して、心のお土産にして戻ってもらいたい。「天に帰る」と書いて「帰天」、これ、どこの宗教が言っているか知ってますか? 「あの方も帰天なさった」という風に使うんですが。では「昇天した」というのはどこの宗教ですか? キリスト教ですね。キリスト教では「逝去した」とは言いません。昇天、天に昇ったと言い、帰天、天に帰ったと言うんです。
 天に帰るとはどういうことかというと、彼らは十字を切って「天にましますわれらの神よ」と唱えるでしょう。神は天にいて、そこに死者も帰るわけです。でもこのごろのお葬式の弔辞を聞いていると、たまに「どうか天に帰ってゆっくりお休みください」と、仏教徒が言うんですね。あれは少しね。仏教徒が天に帰るのは困るわけですが、相当な知識人でもそういう風に述べますね。だから仏教ではどうしたらいいかというと、元に帰る、「帰元」と言えばいいんです。お寺さんで戒名を付ける場合、「新帰元何々居士」とか言うでしょう。「新たに元に戻られた人」を新帰元と言います。天に戻るのとは違う。
 「元に戻る」と「天に戻る」は何が違うのかといいますと、キリスト教には宇宙万物を創った全知全能の神、何でもできるし、何でも知っているし、絶対人聞はかなわない創造者がいるわけです。対して、仏教では死ぬことを帰元と言います。帰元の代わりに「逝去」とも言います。「行き去る」という意味です。この世を去ってあの世に逝く。その根っこには何があるかというと、宇宙・世界の根っこは、宇宙・世界自体の働きによるということ、それを仏法といいます。仏の教えの中身です。そうすると仏法というのは、宇宙や大自然というものは、「此れによって彼あり、彼によって此れあり」という、原因があって結果がある世界だとお釈迦さまは見られた。生があれば必ず死がある。ひっくり返すと、死があることによって生がある。これはちょうど、夜と昼ということと同じで、夜だけはないし、昼だけもない。言葉で言うと、昼は明るく、夜は暗くて闇。この対照でわれわれは毎日「まだ早いよ」「まだ暗いよ」とやっているわけです。
 今生きているということは、裏に必ず死があるということです。そして死の裏にも生があります。仏教では「生死一如」、生と死は一つだとこういう風に言います。大変な哲学です。お釈迦さまは「生老病死」ということを考えた。生まれたものはだんだん老いて、病になって死んでいく。これが発芽、成長、増殖、枯死という大自然の法則とぴったり重なる。だから仏法というのは因果、昼があれば夜もある、生まれてきたものは必ず死ぬということです。生まれてきたことが原因で、結果は死ぬということです。
 動植物も人間も、原因が生まれることにあれば、必ず結果として死ぬ。鶴は千年、亀は万年と言いますが、それはもののたとえで、鶴も亀も必ず死にます。生まれてきたから死ぬんです。こういう風に悟ったのがお釈迦さまで、仏法が宇宙・世界の働きを説明したものだとすれば、因果の関係「縁起」として宇宙・世界はあるのです。仏教の究極、ぎりぎりのところは、生きている者も死んでいる者も、等しく仏法に導かれること、これにあります。
 これから皆様が行います「施食会」という法要は、その重要な一こまです。亡き方々、数限りない「死んでも生きている存在」である霊を招くのです。そしてこういう行いをするのはわれわれが人間だからです。お弔いの心がなくなると、「人間喪失」のようになってしまうわけです。
 今、六十そこそこの方で、ノイローゼとか物忘れとか、そういうものを抱え始めている人がいらっしゃると思います。これは避けることはできません。そういう風なことを避けたいし、見たくないと思っても、生まれたからには必ずなる法則性なんです。
 精神医の専門家である渡辺哲夫という先生が、『死と狂気 死者の発見』という本を書いておられます。「あの世とは何だろう」ということを、おじいさんから教わったと、そういう体験を書いているのです。物心ついたばかりの哲夫少年に八十くらいのおじいさんが「哲夫、今日はお盆の十三日だから、仏様を迎えて来い」といったと言うんです。「どうするの?」と言うと、「お墓に行って、その前で『お迎えに来ました』と言って提灯に火を入れて、それを家に持って帰れ」と言われたと。十万億土を超えて、仏様はお墓から来るんですね。しかし哲夫少年の提灯の火はふっと消えてしまって、大失敗した。哲夫少年はわなわな震えた。十万億土を旅して来てくれたのに、ご先祖を追い返してしまったと。おじいさんに怒られると思っていますと、おじいさんはあっさり「もう一回迎えに行って来い」と。で、もう一回迎えてくると、「よくやったな」と頭をなでられたと。これが渡辺哲夫さんの幼き日の思い出です。
 そこで大人になって、お坊さんは十万億土の彼方の仏国土とか浄土とか言うけれど、それとともに浄土はお墓でもあるのだと。おじいさんの心の中では、十万億土とお墓は二重になっていたんだと。ここが大事です。死者はお墓にもいるし、位牌堂にもいるし、お仏壇にもいる。こういう風に重ねてしまう。キリスト教にはそれがなくて、未亡人の奥さんがノイローゼにまでなったりします。
 日本とアメリカとを比べますと、向こうの遺族はノイローゼになったり大酒飲みになったりすることが多いらしい。日本はじっと耐えて、そのうちに癒されていく。これはなんだろうと。拝むところは仏壇であり、お寺の位牌堂であり、お墓であり、はるか彼方のお浄土であり、別々でありながらそれが一つであの世を形成している。それが日本人の未亡人を安心させているという結論なんです。
 時間が参りました。今後、ご先祖様や亡き人を思うにつけ、今日のお話を参考にしてくだされば望外の幸せです。
 ありがとうござい
ました。


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