成寿一覧表

成寿 第四十一号 
〈連載〉 『普勧坐禅儀』に学ぶ  その五

駒澤女子大学 教授 安藤 嘉則

〈本文 書き下し文〉
れ参禅は静室じょうしつ宜しく、飲食おんじき節あり。

〈現代語訳〉
まず坐禅をする場合、静かな部屋が適切です。飲食はほどよく摂ることが大切です。


 この一節から坐禅の具体的な方法が述べられます。
 まず坐禅するための前提として場所や食事などの環境条件を整えることが必要です。
 坐禅する場所ですが、騒がしいところよりは静かなところが適切です。特に初心者などは坐っていると、いろいろな音や声にとらわれてしまい、集中できなくなるからです。
 ところで現代の私たちの周りには、あまりにも様々な音が氾濫してはいないでしょうか。都会では静かな空間がますます少なくなり、逆に音がないと落ち着かないという人もいるようです。よく電車の中で耳にイヤホンを当てて音楽を聴いている人を見かけます。中には音漏れさせている人もいれば、読書しながら聴いている人もいます。もちろん音楽を楽しむことはよいことなのですが、アルコール中毒ならぬ、音楽中毒もしくは音中毒であれば、かえって本当の音楽のすばらしさが失われてしまうような気がいたします。
 私たちの日本の文化は「間の文化」であるといわれることがあります。たとえば能楽で鼓などの打楽器では、ポンというあの鼓の音と音との間に沈黙の問があります。しかしその間の無音の状態は意味がないのではありません。あの静まりかえった中で、ぎりぎりの緊張感が高まったその瞬間に次の一打が入ります。そのときの驚くほど効果的な音の響きは静まりかえった状態だからこそ生まれます。その静寂は次の一打を強烈な一打に高め、印象、つけるためであるといえるでしょう。また水墨画や禅画 を見ても、西洋の油絵のように一面に絵の且ハで塗りつぶされているのではありません。かえって白紙の問があることで精神的深さを表現することもあります。しかし、この間がぴたりとはまってとれていないと間が抜け」てしまい、「間抜け」といわれることになります。
 さて坐禅堂など静かな空間に坐っていますと、ふだん聞こえないものが聞こえてきます。よく線香の灰が崩れる音が聞こえたといった話を聞くこともありますが、それほどまでではなくとも、自分自身の息づかいの音、遙か遠くで話している人の声、鳥のさえずり、さまざまな音が聞こえたりします。普段それらの音はいつも響いているはずなのですが、沈黙の中ではじめて聞こえる音であるといえましょう。むろんそうしたささいな音にもとらわれず、右の耳から左の耳に受け流し、心に跡をとどめないようにするのですが、いずれにしても静かな部屋での坐禅は普段よりとぎすまされた感覚を覚えるのではないでょうか? このとぎすまされた感覚は坐禅の修行のべースになっていると思います。

 次に食事のことについて道元禅師は「飲食節あり」と述べています。節度ある食事をとることであり、これはいうまでもないことです。食べ過ぎて満腹状態で坐りますと、眠たくなりますし、空腹状態でやっていてもなかなか集中できません。よく禅の修行というと粗末な食事で激しい作務(労働)をするというイメージがあり、実際修行道場において経験することなのですが、しかし道元禅師は劣悪な条件で食べるものを食べずに修行に励めといっているのではありません。坐禅は単なる苦行ではありません。
 考えてみますと、禅宗が日本の飲食の文化に与えた影響は意外にも大きいのです。たとえば中国から味噌と醤油を伝えたといわれるのは法燈国師心地覚心という禅僧ですし、茶祖として中国から抹茶を伝え、『喫茶養生記』を書いて将軍源実朝に勧めたのが栄西禅師です。また江戸時代に煎茶の流儀を広めたのは黄檗宗の僧であり、その宗祖隠元禅師はインゲン豆や西瓜そして普茶料理など、中国の新しい食文化を伝えています。
 また道元禅師は『典座教訓』と『赴粥飯法』という食に関する名著を書いています。前者は修行僧のために心をこめて食事をつくることも大切な修行であることを説き、後者はその食をいただく意味を見つめ直し、感謝の心で食を受ける作法を示しています。

〈本文 書き下し文〉
諸縁しょえん放捨ほうしゃし、万事ばんじを休息して、善悪を思わず、是非をかんすること莫れ。

〈現代語訳〉
もろもろの関係を捨てて、あらゆることを一旦やめてしまい、自分にとって善いとか悪いとかを思わず、また正しいとか正しくないとか判断することをしてはならない。


 「諸縁を放捨し」とありますが、「諸縁」とは自分をとりまくさまざまな関係、いわゆる「ご縁」を意味します。
 坐禅をする場合、何はともあれ、それまでのしがらみ、気にかかることを一旦ご破算にします。「万事を休息して」というのも同じ意味で、あらゆる営みを止めてみることです。もちろん、どうしても心にひっかかることも大抵あることでしょう。しかし、それはそれとして放っておいて、まずは現在の自分に向きあうしかないのです。
 そもそも「ご縁」というのは必ず相手があることです。そして相手との関係性は常に相対的 で互いの距離感も微妙でしょうし、相手の肩書き・年齢・性別・身分によっても細かな対応が必要です。状況によっては、白いものを黒といわれても、うなずかなければならないこともあるはずです。「渡世人のツレーところよ」とは寅さんの言ですが、寅さんでなくとも、社会で生きていく私たちは自分だけというわけにはいきません。いつも相対的な人間関係にふりまわされているうちに誰しも疲れ、次第に自己を見失ってしまう人が出てくるのも無理もありません。
 坐禅というのは自己を見つめることです。そのためにはこれまでのことをチャラにして白紙の状態で自己に向きあうことが坐禅の出発点です。
 「仏道をならうことは自己をならうなり」と道元禅師はおっしゃいました。仏道は私自身と離れたところにあるのではありません。仏教を知識や教養として学ぶのももちろん悪くはないのですが、自己の支えとなるのが仏道であり坐禅なのです。

 次の「善悪を思わず、是非を管すること莫れ」という言葉は、少しとまどうのではないでしょうか。善と悪を判断しなければ、倫理や道徳が崩れてしまうのではないかという声が聞こえてきそうな言葉です。実際仏教以外の宗教の方で、この点をとりあげて仏教には倫理がないのだと批判する方もいます。確かにこの言葉だけで仏教をとらえようとするならば倫理を否定するように思えるのも無理もありません。
 しかし釈尊は「七仏教通誠偶」で

 諸悪莫作(もろもろの悪をなすなかれ)
 衆善奉行(もろもろの善を実践せよ)
 自浄其意(自らの心を清浄にせよ)
 是諸仏教(これが諸仏の教えである)

と述べています。これが仏教の原点にあることを忘れてはなりません。倫理としての善悪の 問題はこの偶に明確に示されています。
 ところで、この『普勧坐禅儀』で述べられているのは、私たちが相対的な視点から、「これは善である」「悪である」」これは正しい」「間違っている」と言っているのですが、本当にそうなのだろうかということを私たちに問いかけているといってもよいでしょう。たとえば現在民族や宗教によって各地で衝突もしくは戦いが繰り広げられています。ある民族のAさんが国のために銃をとって戦い、戦功をあげることは、英雄的で正しい行いとして評価されますが、対立する民族のBさんにとっては自分の大切な家族を失わせた加害者であり、それが正しい行為であるとはけっして認められません。あの広島.長崎の原爆投下でさえ日米の評価はまったく異なっています。日本で原爆投下を評価する人はほとんどいませんが、アメリカでは間違っていなかったとする人が過半数を超えています。これは、スミソニアン宇宙航空博物館において、原爆投下したエノラ・ゲイというB29爆撃機を展示する際、広島の被爆の様子を伝える展示をしようとしたとき大問題となり、全米でアメリカの人々の意識調査をしてわかったことです。あの原爆投下ですら国によって考え方が異なっているのです。
 正しいものがないといっているのではありません。あくまで七仏通誠偶の精神が仏教の基本なのですが、同時に私たちが絶対正しいと思いこんでいる価値判断に対してまずニュートラルになることを求めているのです。

 この後、引き続き道元禅師は坐禅の組み方、手の組み方、姿勢の取り方について説明していますが、次号において解説したいと思います。(続)

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