成寿一覧表

成寿 第41号 「一斉法要法話 - 施食会にちなんで -
「供養の心」について
平成22年6月26日
駒澤大学名誉教授 佐々木 宏幹 先生


善光寺行事報告⇒

一、「ご先祖さま」と「仏さま」
 数年前に東北のある県で、観音さまの像を造り、開眼式を行ないました。開眼は魂入れとも言って、仏さま、観音さまの命を入れ、拝む対象にします。儀式が終わってから、ご先祖の供養をするので、たくさんの方が集まり、お塔婆をお願いします。
 折悪しく11時から始まる法要の前に、にわか雨がやってきました。東北のにわか雨ですから、曇ったかと思ったらザーッときた。女性の方が多くいましたけれども、さあ靴を脱ぐ場所が混雑します。どうなさるだろうと見ていると、お寺の方ではビニールの風呂敷や傘入れを出して下さった。ところが靴を脱ぐだけで大変ですから置く場所がない。すると皆さん、あそこへ行きましょうと言って歩き出した。どこへ行くのかと思っていたら、みんな傘や包みやハンドバックを持って、お寺の後ろに向かいました。そこには大きな位牌堂があります。納骨堂も兼ねていますから、数多くのお位牌のほかに、まだ埋葬しないお骨も何点かある。お位牌は日本海岸のお寺の特色で、お厨子に納めてある。お厨子には家紋が入り、彫刻が施され、○○家先祖代々精霊とあって、あとは○○信士とか信女とあり、引き出し式になっている。こういうお位牌が金ぴかにズラリと揃っている。
 その真ん前で、雨で濡れたようなものを前に置き、皆さん方が手を合わせて口にした言葉に感動しました。「仏さん、法要が終わるまで取ってけさい」。「取ってけさい」というのは「取っておいて下さい」という東北弁です。中には「ご先祖さん、どうぞこのものよろしくお願いします」と言つて、礼をしてから別れた。東北の一般の檀信徒の意識というか心は、こういうものです。
 つまり、家族の仲のいい人にしゃべるのと同じ表現をしている。家族に対して、仏さま、ご先祖さまとはこの世では言いませんから、ご先祖さまは違う所におわすけれども、決して遠い存在ではない。近い存在として手を合わせるということは、有り難いから手を合わせる。つまり仏さまに近づいている方々である。
 ところが、そこには「ご先祖さま」と「仏さま」が両方入っている。日本人の仏心には、「仏さま」と「ご先祖さま」が重なって心の中に定着しているのだと思い、感心しました。

 今日は施食会がこれから行なわれます。施食壇に安置される三界萬霊牌は、天地のあらゆるところに存在する霊に供養するものです。霊と言うと皆さんひっかかるでしょうが、見えないけれども存在すると信じられる人格的な存在です。人格は皆さんがお持ちだから私の言うことをわかって下さる。同じように、あの世に行っても、喜怒哀楽の情や心をお持ちである。それを人格的な存在と言っています。
 施食会には、三界萬霊のほかに、新たに亡くなった新亡諸精霊、檀信徒各家先亡累代諸精霊なども供養します。もう何回忌も何回忌も重ねて、二十三回忌、二十七回忌を迎えた人々もここに集まっていただく。そして、お釈迦さまのお説きになった有り難い経典をお坊さまたちがみんなで読誦し、集まった霊に対して供養する。
 施食棚の真ん中に色のついた幣束のような旗があります。お坊さま方のお経の中に、お釈迦さまから始まって、いろいろな諸仏諸菩薩に来て頂き、三界にいるさまざまな霊、縁がなくて誰も食事を捧げて供養してくれることのないような人々も全部集まれということになると、中心にある信旗にお集まりになる。今日拝む時は真旗が中心になり、諸精霊を供養する。そういう儀式が施食会です。

「畏れ」を知らない時代
 先日、テレビや新聞で大きく報道された事件があります。広島の会社で数ヵ月前まで働いていた人が退職をした。面白くないという気持を持っていた。五十歳近い大人です。それが朝、社員たちが通勤してくるところへ車で猛スピードで突っ込んで行き、七、八人跳ねて一人が亡くなった。
 まだ小さい子どものいるお父さんが亡くなり、あと二人が重体で意識不明。男は警察で「むしゃくしゃしたから、誰でもよかった。殺したかった」と言ったという。そのモデルになったのが二年ほど前の秋葉原の事件です。あの時も、むしゃくしゃしたから、誰でもいい、やっつけたかったと言っています。これは恐いことではありませんか。むしゃくしゃしたら、いつやられるか分からないという社会になぜなったのか。そのことが非常に問題です。

 その裏を分析していくと、どうも「供養の心」というものが日本人の若者や大人たちから薄れつつあるのではないのかと想像せざるを得ません。私が「日本社会が深刻に病んでいる」と表現するのはそのことです。
 現代日本の社会は殺人とか窃盗、詐欺が非常に増加している。歴史を見ると、いつの時代にもこういう事件はあった。しかし専門の社会学者に言わせると、特にここ五、六年ひどいという結論が出ています。
 皆さんは仏教という宗教に縁を持ち、ここにお集まりです。こうした出来事は、仏教徒にとって、とても認められないような問題です。なぜならば、仏教徒には、仏教徒として守らなければならないこと、してはならない事柄(戒)があるからです。その第一が[殺すな」です。人を殺すことは、もう仏教徒の資格がない。これを「不殺生(ふせっしょう)」と呼びます。第二に、人のものを盗むな。』不楡盗(ふちゅうとう)」と言います。それから嘘を付くな。「不妄語(ふもうご)」という言葉を使います。これが仏教徒の基本的モラルで、これを犯したとたんに、昔は教団から永久追放をされたと伝えられます。

 こんな事件もありました。長崎県の小学六年生の女の子がインターネットで侮辱されたというので、女の子をひと突きして殺してしまった。長崎県の教育委員会では、由々しい事件だというので、小学校の五、六年生に、死とは何か、殺しはなぜいけないかという特別の教育をしなさいということを布達したという。その時の話です。娘が学校から帰ってきて、「お母さん、なぜ人を殺してはいけないの」と聞いた。まだ四十代ぐらいのお母さんは、「いけないのは決まっているんじゃない」と答えた。娘は「お母さん、答えになっていないよ。なぜと言っているのに、悪いのは悪いでは答えになっていないじゃない」と言った。お母さんは答えられなくなって、「お前という人は」と言って怒り狂ったというのです。
 横でこの話を耳にしていた七十代のお祖父ちゃんは、「今の若者は畏れを知らないな」とひとこと言ったという。この「畏(おそ)れ」が宗教的には非常に重大な意味を持つ言葉です。
 恐れを英語で何と言うでしょうか。「fear(フィアー)」「terrible(テリブル)」という言葉がありますが、この「畏れ」は「aWe(オー)」という言葉です。宗教的な、有り難いとかもったいないとか、畏れ多いというのが、この「aWe」です。誰かからナイフを突きつけられて恐いという場合は「fearful(フィアフル)」と言うわけです。祖父ちゃんが「畏れを知らない」と言った、その「畏れ」は、あの世であるとか、大いなるもの、あるいは現実を超えてあるもの、そうした宗教的な力へのおののきです。「忝(かたじけ)ない」とか「勿体(もったい)ない」という日本語もだんだんと使わなくなりました。「勿体ない」という言葉も日本から消えようとしているし、「忝ない」という言葉を若者に聞いても分からなくなった。これは、今までの長い間、大人たちが社会の人間関係をよくするために使っている言葉がだんだんと意味を失ってきたということであり、恐ろしいことです。
 「畏れ」とは、大いなるものや超えてあるものへのおののきであり、これが宗教という文化の起源である。宗教がどこから起こったかというと、猿から人間になった時に「畏れ」の気持を持った。オランウータンやチンパンジーは頭がいいけど、そういう「畏れ」を教えても分からない。人間だけが「畏れ」や「あの世」を理解し、「死んだ者も生きている」ということを認識できる。死んだ者が生きているわけがないというのは科学の理屈です。証明できないから無いという。果たして証明できないものは無いのか。証明できないものもあるんだとするのが宗教や哲学の課題です。このように、宗教の起源は「畏れ多い」とか「勿体ない」「恭ない」という気持なんだと言ったのがマレットというイギリスの宗教学者で、そのことを『宗教入門』という本で書いたのです。

文化装置としての先祖供養
 現代社会の特徴として、なぜ殺しだとか盗み、詐欺といったものが多くなったのか。現代人は、ほとんどが戦後生まれになってきていますけれども、社会が裕福になれば悪徳行為は減少すると大人たちが考えたのは、今から六十年ほど前です。
 日本が戦争に負けて、素っ裸になった時に、やはり殺し、盗み、詐欺が流行った。政治家たちは、生活が困っているから人を殺したりする。だから困らないような高度経済成長社会を作ろう。それは見事に成功しました。オリンピックも開催し、万博も行なった。ところが、もう今は、食べるのに困っている人もいますが、六十年前と比べたら、ずいぶん社会は富んでいる。にもかかわらず悪徳は無くならない。これはどういうわけであるのか。
 これには、もっと、もっと、という気持、取っても取っても足りないという私どもの心の奥底に潜む心の働きがある。これを仏教では煩悩だとか我欲という言葉を使います。「我」というものの欲です。これをお見通しになっているのがお釈迦さまです。
 お釈迦さまはどう言われたかというと、人問の欲望は無限にして尽きることはない。このことをよく理解して、お互いに生きましょう。欲望を無限に解放したらどういうことになるか。取っても取っても足りないといって競争し、地球全体を食い尽くしてしまう、ということです。これが人間と動物との違いで、動物も蟻などは蓄えますが、しかし不必要に蓄えて、それを投資して儲けるなんてことを動物はしない。そこで、今の社会がおかしくなった原因として、伝統的な文化装置が機能しなくなったことを指摘したいと思います。
 お墓や仏壇、神棚は、「畏れ」や「あの世」を教える伝統的な文化装置として長く日本社会に機能してきました。「畏れ」の感覚を子どもや孫たちに教え込んだのは、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんです。お祖母ちゃんと一緒にお寺へ行って、何があるのかよく分からないけれども、お線香の匂いのするところで拝んだという思い出が、後になってその人の科学知識では備わらないようなものを育てていく。ここが宗教儀礼の大事なところです。
 お祖父ちゃん、お祖母ちゃんが「悪いことしたんでしょう。仏さまやご先祖さまがちゃんと見ているのよ」と言ってくれる。そのことが目に見えない文化装置として子どもの心を育ててきた。それが今外れかかっているということと、さまざまな社会問題とは深く関わっていると考えます。
 「生と死」とか「あの世とこの世」「彼岸と此岸」という観念が弱まってきた。あの世なんてのは無いよということになってきた。あの世があるか無いかについては、今でも議論がありますが、どの宗教でも、あの世を否定している宗教は人類にはない。説き方は違うけれども、キリスト教も仏教もイスラム教も例外ではありません。生まれた者は成長し、大人になり、年を取って、病になって死んでいく。二十代の人も、あと五十年経ったら同じように年老いていく。いくら鍛えても法則通り年を取る。だんだん弱くなれば病気になりやすい。やがて逝く。さあ逝った時、猿の世界ではそれっきりになりますが、人間だけが、人間なるがゆえに、あの世に行っても、安定して、こちらを向いて、私どもを助けてください、守ってくださいという関係が続いていく。それがさっきの東北の、「ご先祖さん、仏さん、取っておいてけらい」という言葉になっている。

 スイスのカール・ユンク、日本語ではユング。二十世紀最大の心理学者で、人の心はどういうふうに出来ているかということでは、フロイトという人がいましたが、ユンクは人間の心の研究で飛躍的な業績を残した人です。
 ノイローゼになった人を現場で治す臨床精神医学の大家で、文化庁長官をなさった河合隼雄先生はユンクのお弟子さんでした。臨床心理士の資格を日本で初めてもらった人です。ちょうど文化庁長官の頃、縁があって対談したことがあります。そのとき先生は、お坊さんはよくお説教すると一方的にしゃべってしまう。しかし、若者や困っている人が尋ねてきたら、こちらがしゃべるのは出来るだけ抑えて、相手の言うことを、どんな話でもいいから、一時間でも二時間でも三時間でも聞いてやる。これが心の病を治す大原則だということをおっしゃいました。ところが、僧侶という立場になると、お説教でしゃべり過ぎる。あれでは萎縮してしまうということを聞いて、なるほどなと思いました。
 聞くことによって、人は心の中にあるものを吐き出してしまう。悪いものを食べると嘔吐するのと同じように、どんどんしゃべる。そういうことが大事だと話されたことを今でも記憶しています。科学者であり心理学者のユンクは、霊について「死者の霊というのは、人類が始まって以来の普遍的な心的事実である」と言っている。霊があると思うのは、人類が出来た時からの、普遍的な、どこにでも区別なくある心の事実である。だから、あるかないかの証拠を必要としないというのです。よく霊はあるかないか、どこであると決めるか、なんて今でも議論しています。しかしユンクは、そんな証拠立てをする必要はない。なぜなら、人類は全部それを心の中に入れてきている。ただ、入れてきているものが開発されるか、眠ったままで終わるかの差であると言っている。
 読みたい人は『生と死の謎』という本です。サイマル出版から1989年に出た本です。普通の人が言うと、そんなのは迷信だと言われますが、ユンク大先生がそういうことを言っているとなると大変な力になる。霊に対する意識というのは人類普遍の心的事実だから証拠を必要としない。あるかないかを実験するなんていう以前の問題だと言っているわけです。

さまざまな「供養」の形
 「供養」はインドの言葉で「プージャー」と言います。「プージャー」を訳して「供養」としました。その意味は、尊敬を以て、あるいは尊敬の心を以て懇ろに、心の奥底からもてなすこと。だからお友達や恋人をもてなすのも供養です。ご供養してあげるんです。「供えて養う」と書きます。これはいい訳です。
 具体的には、仏教では仏法僧の三宝。仏さまと、仏さまのお説きになったお経、そして仏さまの教えを守って伝えてきたお坊さん。それを三つの宝と仏教では言いますから、そういう三宝にご供養する。それから父母、自分がお世話にな、っている会社の社長さんや先輩、亡き人、亡者などに香華、お灯明、食べ物などを供えて捧げること。これが「プージャー」、供養であると言うのです。
 曹洞宗ではあまりこういう言葉を使いませんが、真言宗では供養は非常に大事で、六種供養というのを行ないます。その六つは「閼伽(あか)・塗香(ずこう)・華鬘(けまん)・焼香(しょうこう)・飯食(ぼんじき)・灯明(とうみょう)」です。
 「閼伽」というのは水を供えること。「塗香」は香を供えると同時に、拝む人がいい香を自分の手や身体に塗る。「華鬘」は、お花を供える。「焼香」は線香を焚く。「飯食」はご馳走を供える。「灯明」はロウソクを立てる。
 また大乗仏教では「六波羅蜜」という実践項目があります。インド語でパーラミター。誰が実践するのか。菩薩です。お釈迦さまのようになりたいと、お悟りを求めて修行している人が毎日実践しているものが六種類ある。それが六波羅蜜です。パーラミターには、お釈迦さまの世界に到るという意味もある。「到彼岸」と言います。彼岸は仏さまが住んでいる所。そこへ到るという意味もあるということです。さて、それはどういうことか。まず「布施」をする。布施というのは、物でも心でも、困っている人に与えることです。この頃、布施というと何か包んでお寺さんに上げるものだけが布施になりましたが、広く施すということですので、物でも心でもお金でもいい、困っている人に捧げましょう。次に「持戒」というのは、殺してはならない、盗んではならない、嘘をつくなという定めを守ること。「忍辱」は堪え忍ぶ。人生には堪え忍ぶことがたくさんあって、みんなそれを放り投げたら終わりです。「精進」というのは努力を続ける。「禅定」は坐禅をして心を整え、身を整えていく。「智慧」というのは仏教の教理を学ぶことです。

 一般の人々の問では、死者やご先祖を懇ろにもてなすことを供養と呼びます。その根っこには、死者やご先祖の守護力への期待がある。死者やご先祖は供養されると有り難く思って、私どもを守ってくださるんだというのです。子どもが親に孝行する。親は子どもをかわいがる。それと同じような相手と自分との密な関係が供養というものにはある。
 そして日本人は、 長く供養というものに対する感性を持つ民族でした。ちょっと挙げただけでも、器物供養というものがある。古くなったものを捨てないという気持。今はゴミをどんどん捨てうという時代ですが、勿体ないという気持になると、これをお寺や神社に納めて、拝みながら葬ってあげる。これが器物供養です。それから、動物供養。今はペットを買ってきて、かわいがっても、言うことをきかないと捨てちゃうという。捨てられたペットをお役所で全部殺処分している。テレビで見たら、何と、殺処分して火葬にした犬や猫の骨をアスファルトを作る材料に使っているというのでビックリしました。われわれが踏みつけているアスファルトが、かつてのペットかも知れないということです。古来、日本人は動物の供養をしてきました。それから針供養というのは、一針一針縫って行くと針が短くなる。昔はこれを豆腐に挿して供養した。人形供養は今でも古いお雛さまなどを供養する。仏壇が古くなったからといって捨てては駄目だ。仏壇には仏さまの命が宿っているのだから、お寺に納めます。下関では河豚供養をしています。ウナギを採っている静岡県の浜松のあたりでは鰻塚というものを作って感謝する。白蟻塚まである。シロアリというのは悪いもので、新築の家の土台を食っていく。だからフマキラーか何かで一網打尽にするけれども、やつばりそれを拝んであげるというのが日本人らしいところです。殺したんだから申し訳ないという気持がある。それから生きた魚をどんどん刺身にして食べています。それを供養する。ハチミツを採取しているところでは蜂塚というものを作る。鯨を捕る所では鯨の霊簿まである。鯨に名前を付けて、何と何と何を殺したからと言って、過去帳と同じ物を作る。鯨の供養簿が山口県にはあるという話です。つまり、人間のために使用され、命を奪われたものは人問と同じように物を捧げて、「悪かったね。おかげで自分たちは生きていますよ」という感謝の言葉を述べた。

功徳は宗教的な力となる
 では、曹洞宗では「供養」というものをどう説いているのかに触れておきたい。
 道元禅師の著作の中に「供養諸仏」というのがあります。諸々の仏を供養することが大きな供養になるということを『正法眼蔵』に書き残しておられます。
 これを現代語に訳して説明すると、こういうことになります。「諸仏に供養する功徳によって仏となるのである」。人々がお釈迦さまのような人になるのには、いろいろな仏を供養する。そのお徳によって仏になるのである。「未だかつて、お一人の仏をも供養したことのない者が、どうして仏となることができようか。因なくして仏となることはあり得ないのである」。供養するという原因を作れば仏に成るという結果が伴う。仏に成ろうとすれば功徳を積みなさい。その功徳は供養である。供養したことによって功徳が積まれる、ということです。
 次に「十種供養」といって十種の供養をお説きになっている。
 その第五に「自作供養」があります。自分で供養を作(な)すということです。六つ目には「他人をして仏及び霊廟に供養せしめるのである」と言っている。「他作供養」というのは、他人に、あんたも供養しなさいよと勧める供養です。自作供養は大功徳を得ることになりますよ。他人をして供養させると「代々功徳を得る」と道元禅師は述べています。そして、自作供養と他作供養を両方をすると、最大の功徳を得るのであると記している。

 功徳の「徳」は何であるか。これはなかなか難しい。私は、お徳というのは力だと思っています。ある種の宗教的な力がそこに生まれる。お功徳というのは自分を守ってくれる。宗教の根っこは力です。それは科学的な証明を超えた力です。法と言ってもいい。お坊さまのお袈裟は仏さまの力の象徴です。
 「勿体ない」とか「畏れ多い」という感覚を若い人や子どもたちに育ててほしい。教育界は制度や組織や人間関係の合理性を問題にします。学級が多いと、四十人より三十人にして、ここで何を教えるかが問題です。心に関することは文科省で徳育ということを言っていますが、徳育の中身が曖昧です。何を教えようとしているのかよく分からない。その中に「いのち」のことも書いてありますが、文科省でやっているのは、憲法の関係もあって、いのちなるものの深いところへの眼差しを欠いている。だからこそ宗教や仏教が出番として出てこなくてはいけない。
 要するに、徳育の中身はどうかと言うと、見える世界は見えない世界に支えられているという認識や感性が必要である。世の中これだけではない。向こうへ行った人々が、実はいつでも眼差しをこちらに注いでくださっている。向こう側からの眼差しを忘れると、人の見ていないところでは何をしてもいいという行動が増えてきます。他入が見ていなくても、盗んではいけないのは、ご先祖が見ているよ、仏さまが見ているよ、ということを心の中の価値観に刷り込んだから悪いことができない。今ではみんな刑法に触れることは恐れるけれど、見えない世界を認めにくくなった。それを説くのが宗教であり仏教です。金子みすずの「大漁」という有名な詩を引きます。

  朝焼け小焼けだ大漁だ
  オオバいわしの大漁だ
  浜は祭りのようだけど
  海の中では何万の
  いわしの弔いするだろう


 有名な詩です。金子さんは海辺で生まれ育った人です。自ら命を断って、若くしてこの世を去りました。今日は朝焼けでお天気がいい。海に行った人々が戻ってきたら、鰯がたくさん捕れて大漁だ。浜の人は喜んで祭りをするようだけれども、見えない海の中では何万匹の鰯の弔いをするだろう。今私は、見える世界と見えない世界と言いましたが、見えるところでは大漁だ、有り難いとお祭りをする。ところが見えない海の底では、鰯たちがお互いに弔いをするだろう。鰯は弔いをするわけはないけれども、金子みすずは、鰯の哀れさを謳っている。われわれは鰯の塩焼きを美味しいといって食べているが、しかし鰯を自分に重ねたら、自分が食われるということはどうだろう。一匹二匹ではない。何十万匹もの大漁だと人問は喜んでいるけれども、見えない海の底では供養をしているのではなかろうかという。詩人らしい、宗教的な感性を持った詩だと私は思います。
 どうか、こういう「畏れ」の感覚を子どもさんたちと分け合って頂きたい。ここにお集まりの方は、そういう「畏れ」に目を開く可能性を多く持っています。あるいはすでに開いていらつしゃる方が多いだろう、ということを申し上げて、私の拙い話を終わります。ありがとうございました。

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