成寿一覧表

成寿 第42号 〈不動明王大祭 特別講演〉
平成23年5月28日 善光寺 身代り不動明王大祭にて 善光寺行事報告⇒

「私と論語」より
こころは見える
東郷 敏

 ありがとうございます。司会より大層なご紹介。分に過ぎております。檀家の一人、総代として時間をつとめます。もちろん僧侶ではございません。
 この断髪は、「大圓武志大和尚が亡くなってしまいました」とのお電話に、驚愕し、取り乱し整理がつかず、そんな時に大和尚がご生前「オレがバリカン人れてやる」と言われた事を思い出し、四十九年間伸ばし続けた髪の毛をバッサリ切り、大和尚の枕元に置きました。
 以来、全身を石鹸一つで洗う事ができ、経済的にも時間的にもありがたいと思い喜んでおります。

 三月十一日、未曾有の大震災。
 誰も経験した事の無い、地震・津波・原発の破壊。
 「天災」と「人災」。複雑多重にからんで眼を覆うばかりです。今、世界中から日本に「負けるなよ、頑張れ!」と声援や支援が届いております。
 ご住職から「支後金を送ってください、物資を送ってください」という指示のお電話をいただいて、善光寺として支援の態勢をとらせていただきました。
 私に思いはあっても、具体的に動けない時分でしたので、ありがたいことでした。すぐ参加させていただき、四月八日、大本山を介して善光寺から皆様方のおこころづかいとご支援をまとめてお届けしました。物資は日本赤十字を通し東日本の被災地にお届けできたという報告を受けました。
 博志住職は、少なくともこれから三年間は続ける意志を示して下さいました。
 動きが早い。「やっぱり善光寺はすごいな、黒田家のDNAはすごいな」と私は感服、敬服しきりです。
 この時に思い出しだのが「人のためにするはスプーンではなく、スコップでしろ」と諭してくれた当寺の開基さんのことです。
 以来、報道やメディアも状況が一変。表現もすっかり変わりました。また企業も売るということを置いて、コマーシャルを流さなくなった。
 民間放送とNHKがこぞって流し出したCMが、ご存じの通りAC(公共広告機構)のもの。
これが今までなかった大きな動き。

国と国民が一体になって「いま行動しようじやないか」というテレビやラジオ。

 公共広告機構が出している四つのCM。
 介護車椅子を進呈した当事者の活動や子宮頚がんの早期発見と治療。
 あと二つは、詩なのかコピーなのか、なにを言い、なにを訴えているのか……私も深く考え及ばずにただ、映像を見聞きしておりました。そんな時にハッと気づいた。
 私自身の在り方を示唆している。人間というは「人と人の間」人に対してどうあるべきか。心と行動の在り方を見事に謳いあげ見せつけている。
 見ているつもり、知っているつもり、みなさんご覧になって、如何な思いでしょう。

  「遊ぼう」っていうと 「遊ぼう」っていう。
  「ばか」っていうと 「ばか」っていう。
  あとで さみしくなって、「ごめんね」 っていうと
  「ごめんね」 っていう。
  こだまでしょうか、いいえ、だれでも。

 しばらく子供向けの詩だなと思っていたのです。
 いいえ「だれでも」だれでもは、私だったのです。

  「こころ」はだれにも見えないけれど
  「こころづかい」は見える
  「思い」は見えないけれど
  「思いやり」はだれにでも見える 


 繰り返し見てるうちに、漸く気づいたのです。私は気づくのが遅すぎていました。
 何を求めているのか、日本の偉い人たちが、選んでテレビで流し続けている。
 それが何かと言えば、仏語に言う「以心伝心」です。「自未得度先度他の心」と同義語です。

 「ありがとう」というと「ありがとう」と返ってくる。
 「嫌い」というと「嫌い」と返ってくる。


 あたかもタライの中の水。手前から水を向こうに押すと向こうにぶつかって、はね返ってくる。「以心伝心」とはそういうことです。
 自分が先に起す行動が、向こうからはね返ってくる。「こだまでしょうか、いえ、だれでも」ということになります。
 これが人間の関係ですよと教えて下さったのが、有名な詩人 金子みすゞです。山□県の長門のご出身だそうです。
 心のありようはこうだよ。つらい人がいたら、こちらもつらい気持になって、悲しい人には悲しんで「同事」の心を尽す。一緒にやろうじゃないかということです。
 ここの本寺、栃木は大田原の光真寺さんも、地震で、瓦は落ちブルーシートに覆われ、墓石も全部飛んだり、ひっくり返ったり無惨だという。東日本は今、どん底、辛い思いを抱えています。
 いま自分がなぜここに座っていられるかを考えてみるのです。お互い様、まぬがれて残していただいたいのち、この有難き、不思議に思いを致し、こだまになりましょう。
 お互い様という間柄を高めて参りたいものです。

 今一つ、
  「こころ」は誰にも見えないけれど
  「こころづかい」は見える。
  「思い」は見えないけれど、
  「思いやり」はだれにでも見える


……「あなたの心はどんな形ですか」と、人に聞かれても答えようがない。自分にも他人にも、本当に見えないのだろうか。

 心づかいと思いやりは、何かといえば、行動力。行動して初めて相手に伝わってゆく。
 これがどういうことなのかを、私の知る範囲「論語」を通して尽してみたいと思います。

 「論語」は孔子の記録です。「大学」「中庸」「孟子」に四書と五経合わせて儒教の原典になっています。
 孔子の後百年、お釈迦さま誕生です。それから百年後、哲人ソクラテス、さらに百〜二百年後プラトン、アリストテレスそしてキリスト生誕です。ここに西暦0年が位置しています。紀元前のことです。
 何千、何万年という人間の歴史の中で僅かこの五百年位の間に、人間の精神的発達の起点・原点というものが集約されている。その心とは「おもいやり」であり「こころづかい」だというのです。
 いずれも「神」「仏」「哲人」と言われる方々です。
 夫々理念は一貫共通しています。孔子は「仁」と言い、釈迦は「慈悲」、ソクラテスは「義」、キリストは「愛」と言いました。夫々他人に対する在り方。心を諭し求めているのです。
 論語の中に「子日く、一以て之を貫く」とあります。その一とは「忠恕(ちゆうじょ)のみ」と言われるんです。
 「忠恕」とは何かというと、「己を尽くす、これを忠といい、己を推す、これを恕という」と説明しています。
 道元禅師様も、これが究極の目的だとおっしゃっています。この心ができれば「よろしい」と。そのために行を尽くし、徳分を高める。その本心というのは「真心、嘘偽りのない自分の心」。人の為になるということです。このところ道元様は『修証義』の中で見事に説いていらっしゃいます。
 ここ不動殿の横一面に畳一枚分の大きさ、この掛軸に「成寿山」という書がありますが、落款がありません。先年、京都・清水寺の森清範貫主が大圓大和尚の仏前にお参りされたとき、善光寺の隅々をご覧になり、「これはどなたの書ですか?」と問われました。「善光寺の開基(村岡満義)の筆です」とお答えすると。
 森猊下は「ああ、そうですか。そうですか。見事な書です。お心と思いが沸騰しています」と仰ったんです。「覇気というか吸い込まれそうです。そうですかぁ開基さんの書ですか……」と。私は側にいて特に何も感じませんでしたが、森猊下は歳末の恒例行事、清水の舞台で「今年の漢字」をお書きになる達筆です。「達人は人をみる」んですねえ。
 開基は本当に謙虚なお方でしたから、落款が欲しいと何回か先代方丈さんが頼みましたけれども、「落款をつくほどの身分じゃありません」と結局つかれなかったんです。
私が勤めました会社に「社是」がありました。これは『修証義』の第四章から取ったものです。「他人のために」。いわゆる「自未得度先度他心」という言葉です。
 一言で「FOR OTHERS」。
 この心があれば、企業も人間も必ず救われると道元様は仰っている。
 余談になりますが、私がある時、山梨の駅前にミシン屋さんがありまして、当時は斜陽業種と捉え、私達の仕事をしてもらおうと思い、二ヵ月ぐらい通って大きな利益を手にする契約を結んだんです。
 私の頭の中では、会社に帰って報告すれば、社長から「そうか。お前は偉い」とほめていただき、昇給、ボーナスに関わると喜んでおりました。しかし、私の報告を聞いていた社長は「君の話はいい事ずくめ。リスクや問題、不利益が起きるかも知れないことを伝えず、君の口車に乗せられた向こうの社長さんの立場になってみろ。ボクは心配だよ!どうも君には『おもいやり』というものがない。どうだろう。君には悪いけど契約は撤回してくれないか」と言われました。
 冗談じゃない。無碍に言い放つ社長に腹が立つ。でも仕方が無い。社員だから……。
 早速に山梨に引き返し、向こうの社長さんに、この契約は私の都合ばかりで、お店のことを考えていない、とうちの社長から厳しくたしなめられたあるがままを申し上げて、お詫びをして、契約の破棄を願い出たのです。
 その話を聞いていた社長さん。「そうですか、承知しました。撤回しましょう。私は心配しておりませんでした。会社の大革新。投資が大きいだけに心配がないというたらウソになります。この通り破棄しましょう」とビリ、ビリ……アッという間でした。契約書は粉々に。あまりの引き際のよさに施しようもなく、私の心の中にいささか期待するところがあっただけにガックリと来たんです。
 その場に留まる理由もなく引き上げようとした時、社長さんが「東郷さん、あなたの社長さんに私から電話させていただきたい。今宜しいですか」。それを聞いて、私は「違約金とられる、どうしよう!」と血の気が引きました。
 仕方なく電話をお借りし大阪の社長に電話して「ご指示の通り、破棄出来ました。ご安心下さい」と伝えてから、店の社長さんに代わったんです。店の社長は丁寧に経緯や新しい業態への期待など話しながら「社長さん、東郷さんの話を伺い本当に安心しました。彼は立派です。改めて私の方から御社との契約お許し願いたいのです。リスクも不利益も経営者の私の責任です。どうぞ経営のノウハウと製品を宜しくお願いします」。
 マコト状況は一変。あべこべになり、間もなく新しい契約書と共に新しい出発が出来たのです。
 「心づかいと思いやり」。実に美しい結末でした。あれから随分になります。いまだに秋が来れば豪華なブドウと水蜜桃が届くのです。勿論私の功績ではありません。「おもいやりへの報酬」。開基であり社長の業績です。救われ続けたことに胸を厚くします。

 みんな「」なんです。  みすゞさんの詩ももう一つの詩も、「思いやり」とT心づかい」、少し違っただけで美しい間柄ができています。これがまさに「恕」の心なんです。
 一人なら何も相手のことを思わなくてもいい。二人以上になったら相手のことを思う。これが論語の「終極」です。
 電車に座っていると、お年寄りが来る。今の時代、年寄りが年寄りを介抱する時代。自分が相手より少しでも達者と判断したら少なくとも手を添え言葉を添えて、立たなきやいかんと思いたい。ただ思うだけでは駄目です。立って席を譲る行動が出来るかどうかです。
 朝起きた時から意識するのです。お使所に入っても「恕、恕、恕」と口ずさむようになれば、少しは変われます。(笑)
 挨拶をするのも恕。笑顔を施すのも恕。とにかく、人の喜ぶことに心を遺うは「恕」

  〜心はみえる〜
 「恕」という心を行動で表現できれば、私たちは残された人生を変えることができるかもしれない。信じて参りましょう。
 インドのガンジーは「自分が欲しいと思い、それを手にしたら罪悪です。いらないものを手にしたら罪悪です。一杯ですむご飯を二杯食べたら罪悪です」と言っています。
 余分なものを持ってはいけません。ここまで巡らしたら経済の発展も自分の成長発展も止まりそうです。偉いお方の話だから聞いて参りましょう。実際簡単な様でも難しい心です。

 自分が自分のためだけにしていることは「恕」ではない。

 『修証義』第四章のなかに「四枚の般若」という言葉があります。「布施・愛語・利行・同事」の四つ。愛語とは、慈しむ言葉が出せるかどうか。利行とは、相手が受益することに自分が手伝うことができるかどうか。同事というのは、相手と同じ立場に立てるかどうかということです。
 いま天皇陛下が東日本各地をお見舞いに訪ね歩いておられます。避難所で座ってる方には必ず自らも座られて、中腰の人には必ず中腰になられて、立っている人には立って同じ目線で。美智子妃殿下も必ず同じ立場でお見舞いなさっておられる。あれが「同事」です。同じ位置、同じ心、一体になることをお釈迦様は教えているわけです。

 これが「発願利生」。この心ができたならば、自分が利益することができると教えています。善光寺ではいかなる行事にも『修証義』第四章を読経しています。これは大圓さまの恕の意志です。
 キリストは『新約聖書』マタイ伝七章のところに、お釈迦様と孔子と同じことを言っています。
 「人を裁くな。自分が裁かれないために、あなた方が裁く裁きで自分も裁かれる。偽善者よ聖なるものを犬にやるな。また真珠をブタに投げてやるな。そのものを理解して受け入れる用意と準備がない者にただ無駄に与えてはならない。求めよ、さすれば与えられん。探せ、さすれば見出すだろう。門を叩け、さすれば開かれる」。
 有名な言葉ですね。また、 「あなた方のうちで、自分の子がパンを求めるのに石を与える者はいない。魚を求める者にヘビを与える者はいない。このようにあなた方は悪い者であっても自分の子供には良い贈り物をする」
 「何事も人々からしてほしいと望むことを人々にその通りしてあげなさい。これは律法である。己欲せんとして他に欲せしめよ。己達せんとして、他を達せしめよ」。

 恕であり同事のことです。このところ「他を救うに非ずして、己を助くるにあるを悟る」と言った偉人がありました。いかにも如何にも。さらに、

 「狭い門から入れ。滅びに至る門は大きく、その道は広い。そしてそこより入って行く者は多い」
 仏語では地獄のことです。

 檀家さん四千軒のうち、この場に在るのはごく一部のお方です。これは「狭い門」です。ここに来られたということはすごいことです。キリスト的に言えば、ラクダが針の穴を通るぐらい難しいところに皆さんは座っておいでなのです。
 天にいますあなた方の父は必ず叶えてくださいます。ここにいらっしゃる方は少なくとも「求めれば与えられ、捜せば見出せるのです」いままさに幸せへの途次にあるということになります。
 いかがでしょう。道すがら「宝くじ」を買ってみませんか。(笑)
 しかし、「主よ、主よという者が皆天国に行くわけではない。ただ天にいます我が父のみ教えを学び、行うだけの者が入り牧われる」とある。
 ただ「仏さん、仏さん」と言うだけでは款われませんよ。本当に良い心で、良い行いをする者だけが款われていきます。
 どの神も仏も聖人も哲人も心の在り方をしっかり導き逃げ道を塞ぎながら善導を試みて下さっています。
 ここには偉いお坊さんや学者、宗教家がいっぱいいらっしゃいます。みなさんは私たち在家や檀家のすべての光の基になっています。尊い方々を求めて寺に通う。僧侶の皆さんがさらにしっかり勉強して、私たちに人間のあり方、歩く方向を教えていただきたい。ためには、よほど勉強しなければなりません。よほど修行しないといけません。

 『修証義』第五章は「行持報恩」となっています。
 「行持」というのは、恕を持して、自分の手にした本心、真心を、恕という心を以って報恩しなければならない。自然の恵み、光の恵み、親の恵み、師匠の恵み、檀信徒の恵み、亡くなった人の恵み、そういう諸々に感謝報恩をすることが大事だと『修証義』は論しています。
 『修証義』は道元禅師の九十五巻にある『正法眼蔵』から引き出したエキスです。それを勉強させていただいた結果、ここでこうして知ったかぶりで話もできる。これが学習したということです。
 お坊さん方も、本当にお忙しいと思いますけれども、深く、広く、熱くご法話下さって、私たちを善導して頂きたい。これが私の願うことでございます。

 「私と論語」という観点から大震災後の最中、天地動転の場に立って、どうする、どうしたらいい。国難の危機に立ち向かう気概でとりとめもなく尽させていただきました。
 皆さまこれよりのち『大「」舞』(だいじょぶ)でしょうか?
 ありがとうございました。


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